天界の秘儀-1

スエデンボルグのArcana Coeletia(天界の秘儀:柳瀬芳意訳)を理解するために簡略に書き換えた抜粋とメモです。

愛と信仰:

33.何らかの愛がなくては如何ような生命も可能ではなく、愛から流れ出るものを除いては喜びも可能でないことは、各人の力により極めて良く知ることができよう。
しかし愛の如何に生命が応じ、喜びも応じている。
もし、あなたらが愛を、またはそれと同一の願望を 
--なぜならこれは愛に属しているからである-- 取り去るならば思考はたちまち停止し、あなたらは死人のようになるであろう。・・・
自己と世を求める愛は生命と喜びに似たものを多少持っているが、しかしそれらは凡ての物に勝って主を愛し自分のように隣人を愛することから成っている真の愛には全く反しているため、愛ではなく憎悪であることが明白となるに相違ない。なぜなら人間は自己と世とを愛するに比例して、隣人を憎み、それによって主を憎悪するからである。
それゆえ真の愛は主に対する愛であり、真の生命は主から発する愛の生命であり、真の喜びはその生命の喜びである。真の愛は一つしか在り得ないのであり、そこから
(諸天界の諸天使の喜びと幸せのような) 真の喜びと真の幸せとが流れ出ているのである。

34.愛と信仰とは同一のものを構成しているため、分離を許さない。
天的な天使たちは、その天的な愛から信仰のあらゆる知識の中におり、ほとんど表現を絶するような理知の生命と光の中にいる。しかし、他方愛がなくて信仰の教義的な知識の中にいる霊は、
(諸天界に近づくことができず逃げ帰ってしまうといった) 冷ややかな生命と明確でない光の中にいるのである。
あなたたちの逃げることが冬起こらないように祈りなさい、その日は苦悶の日であるからである(マルコ伝13.18,19)
「逃げること」とは最後の時を、また人各々が死ぬ時を意味し、「冬」は愛の欠如した生命であり、「苦悶の日」は他生における人間の悲惨な状態である。

31.旧約聖書「創世記」の「光体」は愛と信仰とを意味している。

37.光体は「印のためのもの、季節のためのもの、日のためのもの、年のためのもの」としなくてはならない。(創世記)
という言葉には現在明らかにすることのできないアルカナが含まれている。
(このアルカナとは輪廻転生のこと?)
生命にこうした変化と多様性がないなら、それは画一的なものとなり、従っていささかも生命ではなくなり、善と真理もまた識別、区別されなくなり、まして認識されなくなるであろう。

人間の再生:

39.大きな光体が内なる人の中に点火され、置かれ、外なる人がそこから光を受けた後、その時始めて人間は生き始めるのである。
人間の中には悪い誤った物以外には何物も存在していないため、彼は彼自身によっては本物の善を行うことができないため、彼が彼自身から生み出すものはことごとく生きていないのである。
人間は主によらなくては、善いものを考えることすらできないのであり、また良いものを意志することもできず、従って善いものを行なうことができない。

47.再生は外なる人から始まって、内なる人に進む。

50.人間は天使と霊とを通して主によって支配されており、人間各々のもとには少なくとも二人の霊と二人の天使とがいることを人間は全く知っていない。霊により人間は霊たちの世界に連なり、天使により天界に連り、かくて天界を通して主に連なっていない限り、人間は全く生きることが出来ないのである。すなわち人間の生命は此の連結に依存しており、もし霊と天使とが仮にも人間のもとから去ってしまうならば、人間は立ち所に死滅してしまうのである。
人間は再生しない間は悪い霊がかれと共にいて、彼を支配しているため、天使たちは、その場にいるものの、彼が最低の悪に陥らないように単に彼を導いて、何かの善へ彼を向けさせてやること位しかできないのであり、--事実かれをかれ自身の欲念により善に向けさせ、感覚の迷妄により真理へ向けさせてやること位しかできないのである。かくて彼は彼と共にいる霊を通して霊たちの世界と連なっているが、天界とはさほど連なってはいないで、悪霊が彼を支配しており、天使たちは単にその支配を逸らせているに過ぎないためである。
然し、その人間が再生すると天使達が支配し、あらゆる善とあらゆる真理を彼に吹き込み、また悪と誤謬に対する恐怖と畏怖の念とを吹き込むのである。実際天使達が導いているのは事実であるが、しかしそれは単に仕える者として導いているのである。なぜなら天使と霊を通して人間を支配する者は主のみであられるからである。

59.人間が霊的なものにされつつある再生の過程では、彼は絶えず争闘にたずさわっていて、そのため主の教会は「戦闘的」教会と呼ばれている。なぜなら再生以前は人間全体は全く諸々の欲念とそこから発している諸々の誤謬とから成っているため、その諸々の欲念に支配されているからである。
再生の間に是らの欲念と誤謬とは瞬時に廃棄されることはできない。
なぜならそれらは彼が獲得した唯一の生命であるため、そのようなことは、その人間全体を破壊してしまうからである。それで悪霊等は長い間かれの許に止まっているいることを許されているが、それは悪霊らが彼の諸々の欲念を刺激して、その諸々の欲念が、主により善に向けられ、かくてその人間が改良される程になる迄も、無数の方法をもってゆるめられるためである。
争闘の時には、凡て善で真なるものに、すなわち主に対する愛と信仰に属した凡てのものに--このもののみがその中に永遠の生命を持っているために、善であり真であるが--極度の憎悪を抱いている悪霊らは人間に食物として野菜と青草とに例えられているものを除いては何ものも残さないが、それでも主は
種子のなる草と果実をもった木に例えられる食物をまた与えられるのであり、その種子のなる草と果実をもった木とは楽しさと喜びとをもった静謐と平安との状態であり、この食物を主はその人間に時折与えられるのである。

*)「食物として野菜と青草とに例えられているもの」とは?

996.「食用の青物」は、歓喜の中でも下劣な、単に世的な形体的なものであり、または外なるものであるにすぎないものを意味している。
人間の身体の、
または最も外なるものの中に在る快楽は、より内的な歓喜に起源を持っており、それが内なるものに進むにつれて益々快い幸福なものになっている。
人間が身体内に生きている間の快楽は、他生における善良な霊の歓喜には比較できないほど卑賤なものである。

62.人間の再生の時と状態とは全般的にも個別的にも六つに分けられ、人間の創造の日と呼ばれている。なぜなら、彼は全然人間で無い状態から、徐々に先ず人間のようなものになり、かくて少しづつ第6日に到達し、第6日目に神の映像となるからである。

63.その間主は絶えず彼のために諸々の悪と誤謬と戦われ、争闘により彼に真理と善とを確認させられるのである。争闘の時は主が働かれる時であり、それ故預言者の書の中には再生した人間は神の指の業と呼ばれている。
主はまた愛が支配者として活動しない中は休まれないのであり、それが支配者として活動する時に争闘は止むのである。その業が信仰が愛と連結するほどにも進展したとき、それは「いとも善い」と呼ばれている。それは主はその時かれを御自分に似た形のものとして働かせられるからである。第6日の終わりに悪霊らは去って、善い霊たちがこれに代わり、その人は天界に又は天的な楽園に入れられるのである。

*)ここでは旧約聖書「創世記」の内意が解説されているため、第6日という言葉が使われている。

再生の六つの継続した状態である6日または六つの期間:

7.第一の状態は先行する状態であり、幼少期からの状態と再生直前の状態とを含んでいる。それは「空ろなもの」、「暗闇」と呼ばれている。そして主の慈悲である最初の動きは「水の面の上に動いている神の霊」である。

8.第二の状態は主に属した物と人間に固有な物との間に区別が行われる時である。主に属した物は聖言では「残りのもの」と呼ばれ、ここでは特に、幼少の頃から学ばれ、貯えられ、人間がこの状態に入らない中は明らかにされないところの信仰の諸々の知識である。
現今ではこうした状態は試練、不幸または悲哀なしには殆ど存在しておらず、その試練、不幸または悲哀により身体と世との物、すなわち人間に固有な物は静止して、いわば死んだもののようになるのである。かくて外なる人に属した物は内なる人に属した物から分離してしまう。「残りのもの」は、その時まで、またそれに役立つために、主により貯えられて内なる人の中に存在している。

9.第三の状態は悔改めの状態であり、その中では人間はその内なる人から敬虔に信仰的に語り、仁慈の業のような業を生み出すが、しかしそれはその人間自身から発しているとその人間が考えているため、それは生きていないものである。こうした善は「柔らかい草」または「種子を生む草」と呼ばれ、後には「果を結ぶ木」と呼ばれている。

10.第四の状態は人間が愛に動かされ、信仰により明るくされるようになる時である。彼は実に前には敬虔に語って、善を生み出したが、しかし彼がそれを行なったのは、彼がその下で苦闘した試練と困苦の結果であって、信仰と仁慈から発したものではなかった。それで信仰と仁慈とは今やかれの内なる人の中に点火されて、二つの「光体」と呼ばれている。

11.第五の状態は人間が信仰により語り、それによって真理と善とを確認する時であり、その時かれにより生み出される物には生命があって、「海の魚」「天の鳥」と呼ばれている。

12.第六の状態は彼が信仰から、引いては愛から、真のものを語り、善いことを行なう時である。彼がその時生み出すものは「生きたもの」「獣」と呼ばれている。そして彼はその時信仰と愛から行動し、同時にまた信仰と愛とが共になってそこから行動し始めるため、「神の映像」と呼ばれる霊的な人となるのである。かれの霊的生命は、彼の「食物」と呼ばれる信仰の諸々の知識と仁慈の業に属した物を歓び、それに支えられ、その自然的な生命は身体と感覚に属した物を歓び、それにより支えられ、ここから争闘が生まれ、ついに愛が支配し、その者は天的な人となるのである。

13.再生しつつある者の凡てが此の状態に到達するわけではない。現今大半の者は単に第一の状態に達するに過ぎず、若干の者は第二の状態にのみ達し、僅かな者しか第六の状態に達しておらず、第七の状態(天的な人)には殆ど何人も到達していないのである。

*)「残りのもの」とは?

561.残りのもの」とは、人間が幼少の頃から主の聖言から学び、かくしてその記憶にきざみつけた諸々の善と真理であるのみでなく、そこから由来している全ての状態である。例えば、幼少の頃の無垢の状態であり、両親、兄弟、教師、友に対する愛の状態であり、隣人に対する仁慈の状態であり、また貧しい者や困窮した者に対する憐れみの状態であり、約言すると、善と真理のあらゆる状態である。
これらの状態は記憶に刻み付けられた諸善と諸真理とともになって「残りのもの」と呼ばれ、主により人間の中に保存され、人間に固有な諸々の悪と誤謬から完全に分離されているのである。

再生の状態、「死んだ人」→「霊的な人」→「天的な人」、の相違:

81.死んだ人は身体と世に属した物以外の物は何一つ真のものであり、善いものであるとは認めないで、この身体と世に属した物のみを崇めるのである。
霊的な人は霊的なまた天的な真理と善とを認めるが、しかしそれは信仰の原理から認めていて
--その原理はまた彼の行動の根底となっているが--愛からさほど認めているのではない。
天的な人は霊的なまた天的な真理と善を信じ、認めて、愛から発した信仰以外の信仰を承認しないのであり、また愛から行動している。

81(2).死んだ人を動かしている目的は形体的な世的な生命のみに関連しており、また彼は永遠の生命とは何であるか、または主とは何であるかを知ってはいない。またはそれを知るにしても、信じはしない。
霊的な人を動かしている目的は永遠の生命に関連し、そのことにより主に関連している。
天的な人を動かしている目的は主に関連し、そのことによりその王国と永遠の生命とに関連している。

81(3).死んだ人は争闘に置かれるときは、殆ど常に敗北し、争闘に置かれない時は、諸々の悪と誤謬とに支配されて、奴隷である。彼を束縛するものは法律に対する恐怖、生命、富、利得、名声の毀損に対する恐怖といった外なるものであり、彼はこの生命、富、利得、名声をそれ自身のために尊んでいるのである。
霊的な人は争闘の中に置かれるが、常に勝利を得る。彼を抑制する束縛は内なるものであり、良心の束縛と呼ばれている。
天的な人は争闘を持たない。彼はを諸々の悪と誤謬とにおそわれると、それを軽蔑し、それで勝利者(征服者)と呼ばれている。彼は明らかに束縛によって抑制されてはいないで、自由である。外面に現れてはいない彼の束縛は善と真理の認識である。

*)認識とは?

104.今日認識とは何であるかは知られていない。それは何かが真で善であるか否かについて主のみから発している或る内的な感覚であり、最古代教会には非常に良く知られていたのである。此の認識は天使達には完全であって、それにより彼らは真で善い物に気付き、それを知り、主から発しているものと自分自身から発しているものとを知り、また自分たちに近づいて来る者の性質を、単にその者が近づいてくることのみからでも、またその者の考えていることの只一つの考えからでも知るのである。霊的な人には認識はなくて、良心がある。死んだ人は良心さえも持っていない。大多数の者は良心とは何であるかを知っておらず、まして認識とは何であるかは知っていない。

各々の人の性質:

141.形体的な世的な人間(死んだ人)にあっては、その者自身のものは彼の凡てであり、彼は彼自身のもの以外には何物も知らず、もし彼自身のものを仮にも失うとするならば、自分は滅んでしまうと考えている。
霊的な人にあっても亦その人自身のものは同じような外観を帯びている。なぜなら彼は主は凡てのものの生命であられ、知恵と理解を与えられ、従って考え行動する力を与えられることを知ってはいるが、しかしこの知識は彼の心の信念であるよりはむしろ唇の告白であるからである。
しかし天的な人は主は凡てのものの生命であられ、考え行動する力を与えられることを識別している。なぜなら彼はそれが真にそうであることを認めているからである。彼は決して自分自身のものを欲していないが、それでも彼自身のものが主によって彼に与えられていて、それが善で真のものを認める認識の凡てと幸福の凡てに連結しているのである。天使達はこのような自分自身のものの中にいると同時に最高の平安と静謐の中にいるのである。なぜなら彼ら自身のものの中に主のものであるものが存在しており、主は彼ら自身のものを支配されており、または彼ら自身のものを通して彼らを支配されているからである。この自分自身のものは天的なものそれ自身であるに反し、形体的な人のそれは奈落的なものである。

外なる人、内なる人:

268.内なる人の中には人間自身のものは何一つ無く、内なる人の中に諸々の善と真理があり、善と真理の種は外なる人の中に、すなわち、彼の情愛と記憶の中に植え付けられる。
しかし人間はそのことを知っていない。なぜなら、その内なる人の中に主により貯えられた諸善と諸真理とは、試練、不幸、病気、死ぬ時のように、外なる人が死んだようになる時以外は現れてこないからである。
合理的なものは外なる人に属しており、それは内なる人と外なる人との一種の媒介物であり、内なる人は合理的なものを通して外なる人に働きかける。
しかし、合理的なものが外なる人を内なる人から分離することに同意すると、内なる人の存在は知られなくなり、従って、内なる人に属した理知と知恵はもはや知られなくなるのである。

270.こうした生命の状態は悪霊が主権を獲得し始める時さらに悲惨なものとなる。なぜなら、そのとき悪霊らは外なる人を支配して、天使たちは単に内なる人を支配するに過ぎないのであり、その内なる人の中には僅かなものしか残されておらず、天使たちはその人を守るのに用いるものを殆どそこから得ることができず、そこから悲惨と不安とがうまれてくるからである。
死んだ人間はこの悲惨と不安とを殆ど感じないのは、彼らは自分自身を他の者に勝って真に人間であると考えてはいるものの、もはや人間ではないためである。なぜなら彼らは霊的な天的なものを、永遠の生命であるものを獣と同じように知ってはおらず、獣のように地的なものを見、外なる世のものを見、ただ自分自身のもののみを好んで、合理的なものの同意を得て自分の性向と感覚に耽溺するからである。
彼らは、何ら霊的な闘争を、または試練を受けはしない。

272.人間はその内なる人が外なる人から分離し、極めて全般的な方法によってのみしか働きかけない時は、野生の動物のように生きるのである。なぜなら人間はその内なる人を通して主から受けるものから人間となり、外なる人から取得するものからは野生の動物となるからである。
外なる人は内なる人から分離すると、それ自身では野生の動物以外のなにものでもなくなり、その動物に類似した性質、欲望、食欲、幻想、知覚を持ち、また、それに類似した有機的な形も持つのである。それにも拘わらず彼は推理することができ、しかも彼自身が考えるところでは、鋭く推理することができるのは、霊的な原質によっているのであって、その霊的原質により彼は主から生命の流入を受けているが、その流入はこうした人間の中では歪められて、死んだ悪の生命となるのである。かくて彼は死んだ人間と呼ばれている。

 

*)「合理的なもの」とは?(黙示録講解より)

995.合理的のもの」は霊的なものと自然的なものとの間の媒介物であり、自然的な人の理知は全てその合理的なものから発している。それは媒介物であるため、まず霊界から流入を受けて、それを自然的なものの中へ伝えるのである。
このことから必然的に以下のことが生じる。
すなわち、霊的な人と呼ばれている霊的な心が開かれ、それを通して自然的な心の中へ流入が与えられることができる以前に、合理的なものがつちかわれなくてはならず、そのことは自然的な真理と道徳的な真理である幾多の知識により、また、聖言から発している真理と善とを認知することにより行われるのである。これらにより合理的な心は下から開かれるのである。
他方、霊的な心が開かれ流入が注がれる時に、合理的な心は上から開かれるのであり、かくて合理的なものは中間にあるものとして通路を備え、それを通して幾多の知識と認知とを含んでいる自然的な心は霊的な心に服従し、かくて天界と主との服従するのである。

試練:

751.現今こうした試練を受ける者は僅かしかおらず、またそれを受ける者もそのように苦しむものは彼らの中に内在したものであるとしか考えていないため、試練の性質を簡単に説明しよう。
試練の時に人間の諸々の誤謬と悪とを呼び覚まし、その者が幼少の頃から考えたり行なったりしたことを何なりと記憶から呼び出す悪霊が実際いるのである。悪霊は言い表すこともできないほどの巧妙さと悪意とをもってこのことを行なうのであるが、その人間のもとにいる天使たちは、その者の諸々の善と真理とを引き出し彼を防御するのである。この争闘がその人間により感じられ認められるものであって、良心の苦痛と悔いとを生むのである。
(2)試練には2種類のものがあり、一つは理解の事柄の方面のものであり、他は意志の事柄の方面のものである。
人間は理解の事柄の方面で試みられる時は、悪霊らは人間が犯した悪いことを呼び覚まし、彼を訴え非難する。彼らは、また、彼の善い行為をも呼び覚ますが、しかしそれを無数の方法で歪曲してしまうのである。同時に悪霊らは彼の考えたことを、また感覚的な快楽に関する事柄をも呼び覚ますのであるが、この試練は軽く、このようなものを心に浮かべることによってのみ、またそこから発してくる或る不安な思いによってのみ認められるにすぎない。
(3)しかし人間が意志の事柄の方面で試みられるときは、その者の思考と行為とはそれ程呼び覚まされはしないが、人間を欲念と醜悪な愛で燃やす悪鬼がいて、人間もまたその悪鬼の欲念と醜悪な愛に浸透されてしまう。かくして悪鬼はその人間の欲念そのものによって戦うのであるが、彼らはそのことを非常に悪辣にまた秘かに行なうため、それが彼らから発しているとは信じられないのである。なぜなら彼らは一瞬に彼ら自身を人間の欲念の生命の中へ注入し、しかもほとんど瞬時に善と真理の情愛を悪と誤謬の情愛に歪め、変えてしまい、そのため、その人間はそれが自分自身から行われ、自分自身の意志から発しているとしか考えることはできないのである。こうした試練は極めて苛烈であり、内的な苦痛と責め苛む火として認められる。

760.人間の生命は天界の生命から非常に遠ざかっており、それ故、彼は試練を通して主により再生し、また、たわめられて一致するようになるのである。それは人間の生命そのものに触れ、それを攻撃し、破壊し、変形させるため、そのような意志の事柄の方面の試練が苛烈である理由である。

761.人間の中の霊的な試練は、その者のもとにいる天使たちと悪霊らの争闘であり、此の争闘については以下のことも知っておかなくてはならない。
すなわち、天使たちは絶えず人間を守っていて、悪霊どもが彼に加えようと努力している多くの悪を逸らしているのであり、天使たちは人間の中の誤った悪いものを守りさえしている。なぜなら天使は彼の誤謬と悪とは何処から発しているかを、すなわち、悪霊どもから発していることを充分に知っているからである。人間は自分自身からは誤った悪いものを一つとして生み出しはしないが、それを生み出すと同時にその人間に自分自身からそれを行っていると信じ込ませるものこそ人間のもとにいる悪霊らである。彼らは此の信念を注ぎ入れ強制していると同時に、人間を訴え、罪に定めるのである。
主に対する信仰を持っていない者は、自分自身で悪を行っていると信じないように明るくされることはできないため、悪を自分自身のものとし、自分とともにいる悪霊どものようなものになる。これが人間の実状である。
天使たちはこのことを知っているため、再生の試練においては彼らは人間のいくたの誤謬と悪をも守るのであり、もし、それらを守らないなら人間は屈服するからである。

762.霊的な試練は現今ほとんど知られておらず、また、それは以前ほど許されてもいない。それは人間は信仰の真理の中にはいないし、それで屈服してしまうためである。
これらの試練に代って自然的な身体的な原因から生まれている不運、悲哀、心労といった他のものがあり、また人間の幾多の快楽と欲念の生命を或る程度押さえ、破って、彼の思いを内的な宗教的な主題に方向付け、高揚させるところの身体の病気、疾患といった他のものも在るのである。
しかし、これらは霊的な試練ではなく、霊的な試練は主から真理と善との良心を受けた者達によってのみ経験されるのである。良心は、それ自身、諸々の試練の面であり、その中に試練が行われるのである。

再生しつつある時の状態:

933.再生しつつある時の彼の状態は、冷たさと熱の状態であり、信仰と仁慈が存在しない状態と存在する状態が交互することは、経験によらなくては何人にも明白ではないであろう。
人間は再生しつつある時、主から生命を受けるのである。なぜなら、それ以前には彼は生きたとは言えないからである。それは世と身体の生命は生命ではなく、天界的な霊的なもののみが生命であるためである。
再生を通して人間は主から真の生命を受けるが、それ以前には生命を持たなかったため、生命のない状態と真の生命とが、すなわち、信仰と仁慈とが何ら存在しない状態と多少の信仰と仁慈とが存在する状態とが交替しており、信仰と仁慈とが何ら存在しないことがここでは「冷たさ」により、多少の信仰と仁慈とが存在していることが「熱」により意味されているのである。
「冷寒」が存在している時は、形体的な世俗的な物(彼自身の物)が働いており、人間がこうしたものの中にいる限り、彼は信仰と仁慈を欠いており、天界的な霊的なものについては考えさえもしないからである。
この理由は天界的なものと形体的なものとは人間のもとには共存することはできないということである。
しかし人間の身体と意志のいくたのもの
(彼自身の物)が働かないで静止している時は、主は彼の内なる人を通して働かれ、かくて彼はここに「熱」と呼ばれている信仰と仁慈との中にいるのである。
彼が再びその身体の中へ帰ると冷寒の中にいるが、身体が、または身体に属した物が静止して無いようなものになると、彼は熱の中におり、このことが交互に繰り返されてゆくのである。
このようにして、彼は新しい意志
(良心)を主から受けるのであり、それは主のものであって、その人間のものではないのである。

再生した人間:

977.再生した人間は再生していない人間と比較して、いかようなものであるかについて若干述べてみよう。なぜなら、そのことにより両者は把握されるからである。
再生した人間のもとには善い真のものの良心があり、かれは良心から善を行い、真理を考え、その行なう善は仁慈の善であり、その考える真理は信仰の真理である。再生しない人間は良心をもっておらず、または何かを持っているにしても、それは仁慈から善を行い、信仰から真理を考える良心ではなく、自分自身を、または世を顧慮する愛に基礎づけられており、それでそれは似て非なる誤った良心である。
再生した人間のもとでは彼が良心に従って行動する時には喜びがあるが、それに反して行動し考えることを余儀なくされる時は心労(不安)が生まれるが、再生しない人間のもとではそのようなことはない。なぜならこのような多くの人間は良心の何であるかを知っていないし、良心に従った、またはそれに反した行いの何であるかを知っておらず、単に自分の愛に媚びることを行なうことの何であるかを知っているに過ぎないからである。それが彼らに喜びを与えるものであり、そして彼らが自分の愛に反したことを行なうとき、それが彼らに心労(不安)を与えるものとなっている。
再生した人間のもとには新しい意志と新しい理解があり、この新しい意志と新しい理解が彼の良心であり、すなわち、それらが彼の良心の内に在って、それを通して主は仁慈の善と信仰の真理とを働かせられるのである。再生していない人間のもとには意志が無く、意志の代わりに欲念が在り、従って悪を求める性向が在り、また理解も無く、単なる理論とそこから生まれてくる誤謬への転落とがあるにすぎない。
再生した人間には天的な霊的な生命があるが、しかし再生していない人間のもとには単に形体的な世的な生命があるに過ぎないのであり、善で真のものを考え理解する能力は前に述べた「残りのもの」を通して主の生命から発しており、かれが反省の能力を持っているのはそこから発しているのである。
再生した人間は内なる人が支配していて、外なる人は服従し、屈服しているが、再生していない人間のもとでは外なる人が支配し内なる人はあたかも存在していないかのように沈黙している。再生した人間は内なる人の何であるかを、また外なる人の何であるかを知っており、またそのことを反省して知る能力を持っているが、しかし再生しない人間はそれらを全然知っておらず、またたとえ反省しても、それらを知ることもできない。なぜなら彼は仁慈から発している信仰の善と真理とを知っていないからである。
ここから再生した人間の性質と再生していない人間の性質はいかようなものであるかを、また両者は互いに夏と冬のように、光と闇のように相違していることを認めることができよう。
それで再生した人間は生きた人間であるが、再生しない人間は(天的な霊的な生命のない)死んだ人間である。

*)良心について (霊界日記より)

r4545.良心の最も内なる最初の面は、認識に関わり、かくて主に対する愛、従って善と善の真理に関わり、高い合理的なものである。
第二の面は、善と真理とに対する良い思いに関わり、かくて敬虔に関わり、教会と主の王国のものである。
第三の面は、公正と正しいことに関わり、かくて社会生活における職業に関わり、従って社会と共通の善に関わっており、それは低い合理的なものに属している。
第四の面は、礼儀と作法とに関わり、かくて交際、友達と知人との間における関係に関わり、形体的な能力に属している。
これらの面は連結することができ、内的なものは外的なものの中へ流れ入っており、それで、最後の礼儀と作法の面は、善い起源から流れ入っているため、良いものである。

r4546.しかしながら、外的な面が内的な面から分離しているときは、- たとえ礼儀にかなっている外観は在るにしても - それは名誉、名声、利得、生命のためのものであるか、法律のためのであるか、その何れかであり、従って、それは単に模倣的なものにすぎず、何ら価値のあるものではない。

r4547.良心は隣人に対する仁慈がなくては与えられない。
人間は、自分には仁慈があるか否かを知ることができないほどにも漫然とした認識と観念(考え)しか持っていない。なぜなら彼は情愛を余り知覚しないからであり、仁慈を持っているにしても、それを反省もしないからである。
しかしながら、それは善と真理とに対する、かくて公正と正しいことに対する彼の熱意から知られるのである。
もし彼が熱意を抱いているなら、すなわち、悪い者が善い者となるように、善い者が害われないように、また、共同体や社会が悪い者たちから害われないようにと、そうした目的のために悪い者らを罰しようとする熱意を抱いているなら、その時は、その者には仁慈があるのである。
その時は、彼には仁慈があるように外観では見えはしないものの、また、彼自身も自分には仁慈があることを知ることはできはしないものの、彼は仁慈を抱いている。

天界に入る生活を送ることは困難なことではない (天界と地獄より)

H528.霊的な生活と呼ばれているところの天界に入る生活を送ることは困難であると信じている者たちがいる。
なぜなら彼らは、「人間は世を捨て、肉欲を自分から絶って、霊的にいきなくてはならない」と告げられているからである。彼らは、富と名誉から成った世の物を斥けなくてはならない、神、救い、永遠の生命について、絶えず敬虔に瞑想しつつ歩かなければならない、祈りの中に、また敬虔な書物を読んで生涯を送らなければならないと考えている。
しかし、私(スウェーデンボルグ)は多くの経験より、それは全くそうしたものでなくて、このように世を捨て、霊に生きる者は、もの悲しい生命を身に付けて、天界の喜びを受け入れないことを知ったのである。
人間は天界の生命を受けるためには、ぜひ世に住んで業務と職業に従事し、社会的で道徳的な生活によって、霊的生活を受けなければならず、それ以外の方法では、人間、又その霊は天界に入る準備をすることもできない。
なぜなら、内なる生活を送るが、外なる生活を送らないことは、土台のない家に住むようなものであって、そうした家は次第に沈下し、最後には倒れてしまうからである。

H533.天界の生活を送ることは信じられているほどに困難でないことは、以下のことより明白である。
自分はそれが不誠実なことであり、不正なことであることは知っているが、自分の心がそこに傾いている何か悪いことが自分の前に現れてきたとき、それは神の教えに反しているため、行ってはならないと考えることだけが人間に必要なのである。
人間がそのように考えることに慣れ、そうした習慣を身に付けるなら、その時は徐々に天界に連結するのであり、天界に連結すると心の高い領域は開かれ、それが開かれるに応じて、不誠実で不正なものを認め、そうした悪を認めるに応じて、それを払い落とすことができるのである。悪は、それが認められないうちは払い落とすことはできない。
これは人間が自由意志から入ることのできる状態である。
このように人間がきっかけを作ると、その時、主は、その者の中の善い凡ゆるものを活気づけられ、彼に悪を悪として認めさせられるのみでなく、それを欲しないようにされ、ついにはそれを嫌忌するようにされる。
これが
「わたしのくびきはやすく、わたしの荷はかるい」(マタイ11.30)という主の御言葉の意味である。
しかし、そのように考える困難、悪に抵抗する困難は、人間が意志からその悪を犯すに応じて増大することを知らなくてはならない。なぜなら彼は、その悪に自分自身を慣れさせるに応じて、それを認めなくなり、後にはそれを愛し、愛する楽しさから悪を弁護し、凡ゆる種類の誤謬によってそれを確認し、それは許されることであり、善い事であるとさえ言うのである。これは初期の青年時代から凡ゆる悪へ向き奔放に突入すると同時に、心から神的な物を斥ける者たちの実情である。

仁慈の善:「遺稿-黙示録講解」の932-1028に挿入された項目より

(2)-2人間自身により行われる業は善ではなく、主により人間のもとで行われる業のみが善である。
しかし主により行われる良い業に対しては2つの事項が必要である。
第一に、主の神的なものと人間的なものが承認されなくてはならず、主は天と地の神であられ、善はことごとく主から発していることが承認されなくてはならない。
第二に、人間は十戒に禁じられている悪から遠ざかることにより十戒のいましめに従って生きなくてはならない。すなわち、他の神々を拝することから、神の御名を汚すことから、盗みから、姦淫から、殺人から、偽証から、他の者のもっているものと財産をむさぼり求めることから遠ざかることにより、十戒のいましめに従って生きなくてはならないのである。
この2つの事項は人間のもとに行われる業が善であるためには不可欠のものである。
その理由は善はことごとく主のみから来ており、主は、これらの悪が罪として取り除かれない限り、人間のもとへ入って人間を導かれることはできないということである。なぜなら、それらは奈落のものであり、人間の許における地獄であり、地獄が除かれない限り、主は入って天界を開かれることはできないからである。

このことが金持ちの人間に言われた主の御言葉により意味されるものである。

彼(金持ちの人間)は永遠の生命について主にたずね、「自分は青年時代から、その十戒のいましめを守ってきました」 と言った。主は彼を慈しみ、一つのことが彼に欠けていると教えられた。すなわち「あなたは、その持っている全てのものを売り、十字架を取り上げなくてはならない」と教えられた。(マタイ19.16-22)

「彼が持っていた全てのものを売ること」は、彼(金持ちの人間)の宗教(ユダヤ教の事項)を放棄しなくてはならず、また彼は自分自身のもの(神にまさって自己と世とを愛し、自分自身を導くこと)を放棄しなくてはならないを意味しているのである。

「十字架を取り上げる」とは自分自身のものから発している悪と誤謬とに反抗して戦うことを意味している。

主に従うとは、主のみを承認し、主により導かれることを意味しており、それでまた主は言われたのである。
「なぜ、あなたは私を善いと呼ぶのですか、神のみを除いてはたれ一人善くはありません」

「自己愛」から発する悪と誤謬(「天界と地獄」より抜粋)

555.最初私は、どうして自己への愛と世への愛とはかくも悪魔的なものになり、その愛にいる者らの姿はかくも怪物になるのかと怪しんだ。
なぜなら世では自己愛のことはほとんど考えられず、ただ心の得意のみが - その得意は誇りと呼ばれ、それのみが自己愛であると信じられているが − 考えられているからである。さらに自己愛は、世では生命の火であると考えられ、その火に人間は刺激されて職業を求め用を遂行しており、その中に名誉と栄光とを見ることができないかぎり、その心は麻痺してしまうのである。人々は言う、他の者の心の中にほめたたえられ喜ばれるためでなくて、価値のある有益なすぐれた行為を為した者が一人としてあるであろうか?と。そしてそれは栄光と名誉に対する、従って自己愛の火から発しないで、何処から発しようかと尋ねられている。
従って世では自己愛は、地獄を支配し、人間のもとに地獄を作っていることは知られていない。
実情はこうしたものであるため、私は先ず自己愛の何であるかを記し、後に悪と誤謬とは全てその愛を源泉として発してくることを記そう。

556.自己愛は自己にのみ良かれと欲し、自己のためでないなら、他の者の益を願わず、教会、国家、または人間社会の益さえも願わず、また自分自身の名声、名誉、栄光のためにのみ社会に益を与えることにある。なぜなら他の者に対して行なわれる用の中にそうしたものが認められないかぎり、その人間は心の中に、それは私に何の関係があるのか、なぜ私はそうしなくてはならぬのか、それは私に何の利益になるのか、と言って、それを何一つ為さないからである。このことから自己愛にいる者は教会を愛さないし、その国家も、社会も、またいかような用も愛さないで、ただ自分自身のみを愛することが明らかである。
自分自身を愛する者はまた自分に属する者、すなわち、個別的には自分の子供や孫を、全般的には自分と一つのものとなっていて彼が自分の者と呼んでいる者を愛している。これらの者を愛することは自分自身を愛することである。なぜなら彼は彼らを自分自身の中にいるものとして認め、また彼らの中に自分自身を認めているから。彼が自分のものと呼んでいる者の中にはまた彼を讃え、尊び、彼の愛を求める全ての者がいる。

557.自己愛は天界の愛に較べるならばその特質は明らかとなるであろう。天界の愛は用を用のために、または善を善のために愛することにあって、それを人間は教会、国家、人間社会、同胞のために遂行する。なぜなら用と善のすべては神から発しているため、それが神と隣人を愛することであるから。
しかし自分自身のために同胞や教会を愛する者は、それらを自分自身に仕えさせる為に、それらを自分に仕える付添いとしてしか愛していない。ここから、自己愛にいる者は、教会、国家、人間社会、同胞が自分に仕えることを願って、自分がそれらに仕えることを願わない。なぜなら彼は自分自身を彼らの上において、彼らを自分自身の下においているからである。
従って人間は自己愛にいるに応じて、天界の愛から自分自身を遠ざけている。

558.さらに誰でも、用と善とを愛し、教会、国家、人間社会、同胞のために用と善を遂行することに心の歓喜を覚えることから成る天界の愛を抱くに応じて、主から導かれる。なぜならその愛はその中に主がおられ、また主から発している愛であるから。
しかし誰でも自己愛にいるに応じて - その愛は自分自身のために用と善とを遂行することから成っているが − 自分自身から導かれ、そして誰でも自分自身から導かれるに応じて主からは導かれない。ここからまた、誰でも自分自身を愛するに応じて、自分自身を神的なものから遠ざけ、かくてまた天界から遠ざけている。
自分自身から導かれることは自分自身の性質から導かれることであって、自分自身の性質は悪以外のものではない。なぜならそれは彼の遺伝悪であって、その悪は神よりも自分自身を愛し、世を天界よりも愛することにあるから。
人間はその為す善の中に自分自身を顧みる度毎に、自分自身の性質の中に入れられ、かくてその遺伝悪の中へ入れられる。なぜなら彼は善から自分自身を仰いで、自分自身から善を仰がず、それで善の中に自分自身の映像を作り出して、神的なものの映像を全く作り出さないからである。
自己愛は天界の愛に反していることはその二つの愛の起源と本質から認めることができよう。
自己愛にいる者における隣人への愛は −自分自身が隣人であるため− その者を中心とし、その者と一つになっている全ての者に及んでいるが、その者との連結の度が減退するに応じて減退している。このサークル(仲間)の外にいる者は全く顧みられず、その仲間に対立している者たちは、その性格が、いかほど賢く、正直で、公正であっても、敵と見なされている。
しかし霊的な人間の隣人への愛は、主を中心として主から始まり、愛と信仰とにより主と連結している全ての者に及び、その者たちの愛と信仰との性質に応じて発出している。
以上より、人間から始まる隣人愛は、主から始まる隣人愛とは対立しており、前の愛は人間の固有性から発しているため悪から発しているのに反し、後の愛は善そのものであられる主から発しているため、善から発していることが明らかである。

「世への愛」から発する悪と誤謬:(「天界と地獄」より抜粋)

565.世への愛については、自己愛ほど天界の愛に対立してはいない。なぜならそれはその中にそれほど大きな悪を秘めてはいないからである。
世への愛は人間が他の者の富をあらゆる種類の術策によって一人占めにしようと欲し、心を世の富に置き、自分を隣人に対する愛である霊的愛から遠ざけ引き出し、引いては天界から、神から、遠ざけ引き出すのを許すことから成っている。
しかしこの愛には色々なものがある。名誉のみを愛し、名誉を与えられようとの目的から富を求める愛があり、富を蓄積しようとの目的から名誉と高位とを求める愛があり、世で歓喜を与える色々な用のために富を求める愛があり、守銭奴のように、ただ富のために富を求める愛といったものがある。
富を求める目的となっているものはその富の用と呼ばれ、その目的または用から愛はその性質を得ている。なぜなら愛は目指す目的と同じ性質を持ち、他の全ての物はただその手段としてのみ役立つにすぎないからである。

「支配することを求める愛」から発する悪と誤謬:(スエデンボルグ「最後の審判-遺稿-」より抜粋)

237.世にいて、この文章を読まれる方々は、用(役立ち)のためではなく自己のために支配することを求める愛は悪魔の愛であって、その中には全ての悪が存在していることを知られたい。このことを知って警戒されるように。
私(スウェーデンボルグ)は以下のことを示す例を(死後の世界で)おびただしく見ているのである。

241.色々な国の貴族に属している人間が見られた。かれらが天使たちから調べられると、彼らは絶えず自分自身に意識を向け、彼ら自身の卓越した高位と優越とについて考え、全ての人間が彼らにその目を向けるようにと欲していることが認められた。
死後の世界で、彼らに官職が与えられたが、彼らが共通の福祉に関わる主題について結論を下している時、彼らはその共同体に対しても、また用(公益)に対しても何らの情愛も持っていないことが認められた。かくて彼らは善と悪とを識別できず、ただ記憶から大袈裟に話すことができるにすぎなかった。かれらはそうした性格のものであったため、その官職から放逐され、方々歩き回って自ら勤めを得たが、何処へ彼らは行っても、そこに居る霊たちから「あなたは只あなた自身のことのみ考えていて、私達のことを考えてはいない」と話され何処でも受け入れられなかった。後で私は彼らの中の幾人かの者が行き詰まってしまって、施しを乞うているのを見た。
このように支配の愛は低くされてしまうのである。

245.命令することの歓喜、すなわち、その中にある甘美なものは表現を絶しているのである。この甘美なものから、人間は、それが地獄であるのに天界であり、天界の楽しさであると信じる。悪を為す愛、憎悪と復讐の愛、窃盗の愛、また姦淫の愛、それらのものの歓喜においても同じである。
人間は、主により改良され、これらの愛が後退すると、その時はじめて天界の歓喜が入ってくることを知らないが、その歓喜は前の歓喜を遥かに凌駕しているのである。また、かの悪の歓喜は、その時、不快な悪臭を発するものになることも、人間は知らない。

246.軍務に服していた者や文官の任務についていた多くの者を見た。その全ての者は、幸運の快い影響の下に、あらゆる物を治める主権を渇望するといった支配の歓喜を身につけてしまったのである。さらに彼らは他の者にまさって社会的な事項については才能と自然的な光(知性?)とを賦与されていた。死後、彼らは最初は神について話してはいたが、しばらくすると神を否定するのみではなく自然を承認し、ついには暗い陰の中に座って愚物のような者となり、悲惨な生活を送った。
その理由は、支配の愛は天界の愛に対立しているためである。

248.或る一人の霊がいた。彼は少年の頃から敬虔の念をつちかっていて、そこから、その生涯の終わりまで絶えず神を承認したのである。それでも彼は幸福の快い影響の下に、支配を求める愛の中に入ってきて、そこからあらゆる種類の悪へ入った。彼は実際それらを行いはしなかったが、それらを容認し合法的なものと考えた。
他世においても彼は父なる神に熱烈に祈った。なぜなら彼はそうすることで全ての事項が彼に赦されると信じたからである。
しかし彼は主を否定するほどにも主に対し憎悪を抱きはじめ、後には主を崇める者たちを迫害した。ついには彼は神をも否定して愚物になり、生命をほとんど持たない者たちの間へ追いやられてしまった。

249.支配する愛の歓喜に居る者は霊的なものになることはできない。彼らは情愛の全てを、引いては思考の全てを彼らの固有性(自己愛、自我)に浸してしまうという理由から形体的(自然的)なものとなり、その固有性から引き出されることはできない。
心で神を承認し、その固有性から引き上げられる者は、誰でも、天界を通して主から理知(霊的な光)が流れ入ってくる。しかし、その固有性(自己愛)のために神を見上げることができない者は天界を閉じられてしまい、天界が閉じられると彼らは愚物になり、馬鹿者のようになるのである。

神の摂理:

6480.主は人間の意志と思考の中へ流れ入られるのみではなく、同時にその人間に起こる多くのものにも流れ入られている。
これは主が天界を通して間接的に流入され、また御自身から直接的に流入されることであって、これは摂理と呼ばれるのが適切であるため、以下の記事では、それを「神の摂理」と呼ぶことにしよう。

6481.他世に入ってくる霊たちは、「神の摂理」は全般的なものではあるが、個々のものの中には働いていないという意見を抱いてくる。この意見の原因は、悪い者が名誉を与えられ、金持ちになり、成功の栄冠をつけるのを彼らが見て、それらの成功を悪い者らの賢明さに帰しているためであり、以下のことを知らなかったためである。
神の摂理は人間の永遠の救いをその目的としており、この世での人間の幸運、すなわち、人間の豊かさと卓越とを目的としてはいない。
大半の人物は幸福を豊かさと卓越とにおいているが、事実はそうしたものではない。なぜなら普通、卓越は自己愛を生み、豊かさは世を愛する愛を生み、かくて神に対する愛と隣人に対する愛とに反したものを生むからであり、それでこうした物は悪い者に与えられる。(また善い者にも、それが不適当なものではなく、彼らを天界から引き出さないなら与えられるのである。)
さらに主は善い者を通してのみでなく、悪い者を通しても、その御目的に備えられている。主は悪い者をその者の愛を通して動かし、隣人に、国に、教会に良いことを為させられる。悪い者は卓越することを求め、自分自身の利益を求め、他から正しい熱意ある者であると見られようと願い、これらから恰も火でたきつけられるように、気質の善良な者よりもさらに強く動かされて、そうしたことを行うからである。
また悪い者には、全ての物は彼ら自身の利口さから生まれ、神の摂理などない、あってもただ全般的なものしかないと信じることも許されているのである。彼らはそれ以外のことは認めようとしないため、また、彼らが公共の善に資する事項を遂行するようにと、成功も彼らの企画に応じて彼らに与えられているが、その成功は、彼らがそれを彼ら自身に帰しているという事実から、彼らをさらに刺激するのである。

富と業:(「天界と地獄」より抜粋)

357.聖言で「金持が天界に入るのは、らくだが針の穴を通るのと同じく困難である」、「貧しい者は祝福されている、天国は彼らのものだから」と言われているが、聖言を文字の意義にのみ従って理解する者は、多くの事項で誤りを犯すのである。
私は天使たちと再三話し合い、交わることによって、人間は豊かに生活しているために天界から閉め出されることはなく、また貧しいために天界に迎えられもしないことを確実に知ることができたのである。

357.人間は、ずるく立ち回って他を欺きさえしなければ、富を得て貯えてもよいのであり、美味しい物を食べても飲んでもよく、壮麗な所に住んでもよく、娯楽へ出かけても、楽しく陽気にしていてもよく、その財産を、情愛から動かされないかぎり、貧しい者に与える必要もないのである。約言すれば、彼は外面では全く世の人間のように生活してもよく、心の奥深くで神について正しく考え、隣人に対して誠実に公正に行動しさえするならば、富のために天界に入るのを妨げられはしないのである。
「人間はその行為に従って審判され、その業に従って報いられるであろう」と聖言に言われていることにより、人間はその行為の源泉である思考と情愛とに従って審判され報いられることが意味されている。なぜなら、外面的な善い業は邪悪な者によっても為されるが、外面と同時に内面でも善い業は善良な者によってのみ為されるからである。

2.善と真理:(天界)

3.悪と誤謬:(地獄)

4.教会、真の信仰

5.霊たちの世界

6.神の摂理