神の摂理8

スエデンボルグの遺稿 黙示録講解(柳瀬芳意訳)の1162-1172付近に挿入されている「神の摂理-第8」に関する抜粋、抄録です。

人間は、理解と意志の方面では霊界にいる:

 人間は、その唇の言葉と身体の行動とにより自然界の中にいるが、同時に、その理解の思考と意志の情愛とにより霊界にいるのである。
 霊界とは天界と地獄が意味されており、両者とも極めて完全な秩序を持って配置されている情愛と、そこから発する思考の多様性とに応じて無数の社会に分割されている。これらの社会の真中に人間はおり、その社会と関連しなくては考えたり欲したりする能力を些かも持っていない程にも、その社会に縛り付けられている。仮にもその社会から引き離されるか、その社会がその人間から引き離されるとするなら、人間は倒れ伏し、生命が最内部にのみ留まっているに過ぎなくなるほどにも、その社会と関連をもっているのである。
人間は、その生命により人間であって獣ではないのであり、その生命により人間は永遠に生きるのであるが、人間はその生命の方面で、そうした分離できない友情関係にあることを知りはしない。
このことを人間は知らないのは、人間は霊たちと話し合いをしないためである。(このことがスエデンボルグに霊的体験として明らかに示された)
 神の摂理が理解される以前に、このことを言っておく必要がある。

人間は自己愛により地獄へ向く:

 人間は、生来、奈落の社会の中におり、その意志の幾多の悪い情愛を広げるのと正確に類似して人間自身をその社会の中へ広げるのである。意志の悪い情愛は全て自己と世を求める愛から発しており、それは以下の理由のためである。
 人間が自分自身を全てにまさって愛するとき、その心は下の方(地獄の方)へ向けられ、主と天界(上の方)へは背を向ける。人間は自分自身からは下方へ向くが、主は主御自身から上方へ向けられるのである。その心を支配している愛が向けるものであり、思考が意志から発していない限り、思考は心の内部を何れかに向けはしない。
 このことを人間は全く知らないものの、人間はいかようにして主により地獄から導き出されて、天界へ導き入れられるかを理解するためには、そのことを知らなくてはならない。

人間が地獄から天界へ導かれる方法:

(2) 人間は地獄から導き出されて、主により、天界へ導き入れられるためには、人間自身が恰も自分自身から悪に抵抗するかのように地獄に抵抗しなくてはならない。もし人間が恰も自分自身から抵抗するかのように抵抗しないなら、人間は地獄に留まり、地獄は人間の中に留まり、人間は永遠にそこから引き離されもしない。
悪は刑罰か試練の結果離れ去ることによってか、または、真理と善に対する情愛によってか、その何れかにより人間から遠ざけられるのである。改良されていない者たちのもとでは悪は刑罰により遠ざけられるのであり、改良されようとしている者たちのもとでは悪は試練とその結果そこから離れ去ることにより遠ざけられ、再生している者たちのもとでは真理と善とを求める情愛により遠ざけられるのである。
 改良されていない、または悪い人間が試練に耐えるとき、- そうしたことが地獄で起こるのであるが - その者が自分自身では悪を欲しないことが認められない間は刑罰に置かれるのであり、その者自身から(悪を欲しないように)強制される時迄は自由にされないのである。もし彼がそうした意図と意志とに至るまで罰しられないなら、その者はその悪の中に続いて留まるのである。なぜなら、その悪は内部に留まって、恐怖が止むとき帰ってくるため、彼自身を強制しなければ、悪は根絶されないためである。
 今にも改良されようとしている者たちのもとでは、悪は試練により遠ざけられるが、試練は刑罰でなく争闘である。そうした人物は悪に抵抗するように強制されはしないで、その者がその者自身を強制して主に祈り、かくてその抵抗した悪から開放されるのである。そうした者は後では悪から遠ざかるが、それは刑罰を恐れる恐怖からではなく、悪に対する嫌悪から発するのであり、終いには悪に対する嫌悪は彼らの抵抗である。
 しかし、再生した者たちのもとでは試練は、または争闘は何ら存在しないで、真理と善に対する情愛があり、それが悪を彼らから遠くに斥けてしまうのである。なぜなら、彼らは悪の源泉である地獄から分離され、主に連結しているからである。

(3) いくたの悪から分離され、遠ざけられることは、奈落のいくたの社会から分離され、遠ざけられることと同じことである。主は奈落の社会から、すなわち、悪から分離し、遠ざけられる力を持たれ、その望まれる者を誰でも天界の社会へ移される力を持たれているが、しかし、そうした変化は単に2〜3時間しか続かず、それが過ぎると、いくたの悪が帰って来るのである。私はこのことが行われるのを頻繁に見たのであり、その悪は以前のように悪として続くのを見たのである。全霊界において、恰も自分自身から争闘するかのように、または抵抗するかのように、争闘し抵抗する以外の方法により悪から遠ざけられる例は一つとして無いのであり、または主のみによりこのことを行う以外の方法でそのことを行う場合は全く有り得ないのである。

 この主題については、経験からさらに述べよう。
地上から霊界に入ってくる全ての者の性質は、恰も自分自身から悪に抵抗するかのように悪に抵抗するその者の能力の有無から知られるのである。そのことを行うことができる者たちは救われるが、そのことを行うことができない者らは救われはしない。その理由は、人間は自分自身からは悪に抵抗することができず、ただ主のみから抵抗することができるということである。なぜなら人間における幾多の悪に抵抗し、人間に自分はそのことを自分自身から行っているかのように感じさせ、認めさせる方は、主であられるからである。
それで、世で主を承認し、善と真理はことごとく主から発しており、何一つ人間からは発していないことを承認し、かくて悪に打ち勝つ力は主から発していて自分自身からは発していないことを承認した者たちは、恰も自分自身から悪に抵抗するかのように悪に抵抗するのである。しかし世でそのことを承認しなかった者らは、恰も自分自身から悪に抵抗するかのように悪に抵抗することはできない。なぜなら、そうした者らは、悪の中にいて、愛から悪の歓喜の中におり、愛の歓喜に抵抗することは、自分自身に、自分自身の性質に、自分自身の生命に抵抗することと同じだからである。
地獄の刑罰が彼らに述べられる時、その刑罰が目の前に見られ感じられる時に、そうした者らは悪に抵抗することができるか否かが実験されたが、しかし、それは無駄であった。
なぜなら彼らはその心を頑なにして、以下のように言ったからである。
それはそうであり、それが来るとしても、私がここにいる限りは、私の心の快楽と喜びとに私を置かせておくれ。現在を私は知っている。将来は私の考えるところではない。他の非常に多くの者に起こるよりも悪いことは私には来はしないから、と。
そうした者らは、時が満ちるとき、地獄に投げ込まれるのであり、そこに彼らは刑罰により強制されて悪を行うことより遠ざかりはするが、しかし刑罰は悪を欲し意図し考えることを取り除きはしないのである。
この全てのことは、悪に抵抗する力は人間からは発しないで、主を承認している者たちのもとに主から発していることを明らかにしており、主が恰もそれが人間により行われるかのように見させられることを明らかにしている。

人間を地獄から救う「神の業」:

(2) 主のみが人間における幾多の悪に主御自身により抵抗されるのであり、そのことは天界の何らかの天使たちを通して抵抗されるのではない。なぜなら人間のもとで幾多の悪に抵抗することは神的な全能、神的な全知、神的な摂理の業であるためである。
それが「神の全能」の業であるのは、一つの悪に抵抗することは、多くの悪に、地獄全体にすら抵抗することであるためである。なぜなら悪は各々ことごとく、他の無数の悪と結合しており、それらは幾多の地獄がお互いに他に密着しているように密着しているからである。
幾多の悪は一つのものとなっているように幾多の地獄も一つのものとなっており、幾多の地獄が一つのものとなっているように幾多の悪も一つのものとなっており、主を除いては誰一人、このように結合している幾多の地獄に抵抗することはできないからである。
それが「神の全知」の業であるのは、主のみが人間はいかようなものであるかを、人間の悪はいかようなものであるかを、その悪は他の悪といかように連結しているかを知られており、人間が内的に、また根本的にいやされるためには、いかような秩序をもって除かれねばならないかを知られるからである。
何一つ秩序の法則に反しては行われないこと、行われることは人間の永遠の善を促進させるということは、「神の摂理」の業である。なぜなら神の全能、神の全知、神の摂理は最小の微細な事項においても永遠なるものを顧慮しているからである。

(3) このことは全て、いかような天使も人間のもとにある幾多の悪に抵抗することはできないことを、主のみが抵抗されることができることを、明らかにしている。主は御自身から直接に、また天界を通して間接にこの業を行われるものの、いかような天使もそのことについては何一つ知りはしないといった方法で行われるのである。なぜなら天界はその総合体においては主であるからであり、そのことは天界の総合体は主から発出している主の神的なものであるためであり、従って主が天界を通して働かれつつあるときは、主は御自身から働かれつつあるのである。神の御働きは諸天界を通して流れ入っているために、間接的に、と言われているものの、それでもそれは、そこにいる天使の持っている天使自身のものからはいかようなものも得てはいないのであり、ただ天使たちのもとにある神の御働きそのものからのみ得ているのである。
その外見は人間が何等かの行為を行うときと全く同一であり、その行為を生み出すために人間は無数の運動繊維を、その全身体を通して動かすのであるが、この運動については繊維は一つとして何事も知らないのである。天界と呼ばれている神の御神体における天使たちもそうしたものである。

人間自身の悪:

 例えば、「盗むな」という十戒の戒めにより説明しよう。
盗む欲念に、つまり不正直に不正に富を得ようとする欲念に、恰も自分自身から抵抗するかのように抵抗し、その心の中で、それは神の律法に反し、神に反し、それは奈落的なものであり、かくてそれ自体が悪である、という者たちは、若干の短い期間の争闘の後、主によりその悪から引き出され、誠実と呼ばれる善へ導き入れられるのであり、その時彼らは、これらの善について考え始め、その善から善を眺め初め、誠実から誠実を、公正から公正を眺め初め、後に彼らは、この欲念の悪を避け、そこから遠ざかるため、彼らは善を愛し、愛から善を行って、強制から善を行いはしないのである。
そうした善は主から発しているのは、その善はそれ自身において善である善であるためである。
不正直に不公正に富を得ようとする欲念が人間の許に留まっているときは異なっている。その時には、彼は正直から正直に、または公正から公正に、かくて主から正直に公正に行うことはできないで、ただ自己からのみ行うことができるのである。なぜならその者は単に、より大きな利得と名誉を確保しようとの見解を抱いて、自分が正直であり公正であると信じられるためにのみ正直に公正に行動するからである。こうした目的がその者の善の中にあり、その目的からその善の性質の全部が発している。そうした善が内部に悪を抱いているのは、その性質は、不正直に不正に利得を得ようとする目的から発しているからである。誰でもそうした者は、その悪が除かれない間は、それ自身において善になることはできないことを認めることができよう。
 十戒の他の戒めの全ても同様である。

人間の回転:

(2) 人間が幾多の悪から遠ざけられるに応じ、地獄から遠ざけられる。なぜなら、悪と地獄とは一つのものであるから。人間は悪と誤謬とから遠ざけられるに応じ、善の中へ入り、天界と連結する。なぜなら、善と天界は一つのものであるから。
このようにして人間は、他の人間となり、その者の自由、善、心智、理解と意志は一回転してしまうのである。なぜなら、人間は天界の天使となるからである。前には悪を考え、欲する自由であった人間の自由は、善を考え、欲する自由となるが、それはそれ自身において本質的な自由である。人間は、この自由の中にいない限り、自由とは何であるかを知りはしない。なぜなら、人間は、悪の自由から善の自由は奴隷であると感じたからであるが、今では、善の自由から悪の自由は奴隷であると感じるのである。実に、それはそれ自身そうしたものであるからである。
人間が前に行った「善」は - それは悪の自由から発していたため - それ自身においては善では有り得なかったのである。なぜなら、それはその中に、自己を、また世を求める愛をもっていたからである。
善は愛以外の起源を持つことはできない。愛があるままに善があるため、その愛が悪であるとき、その歓喜は善として感じられるのであるが、それは悪である。
しかし、この変化の後には人間が行う善は、それ自身において善であるのは、前に言われたように、善そのものである主から発しているためである。

(3) 「人間の心」は、天界に連結されない間は、地獄から導き出されていなかったため、後ろの方へ向けられていたのである。それが改良の状態にある時は、真理から善を注視し、かくて左から右を注視しており、それは秩序に反しているのである。しかし、心が天界に連結されているときは、それは前の方へ向けられて、主へ向かって高揚され、右から左を注視するのである。すなわち、善から真理を注視するのであり、それは秩序に従っているのである。かくて一回転がもたらされる。
「理解と意志」においても同一である。なぜなら、理解は真理を受け入れる器であり、意志は善を受け入れる器であるからである。
人間が地獄から導き出されない間は、理解と意志とは一つのものとしては働かない。なぜなら、人間は、その欲しない多くのものを理解から認め、承認するからであるが、それは人間はその多くの事項を愛さないためである。しかし人間が天界に連結しているとき、理解と意志とは一つのものとして働くのである。なぜなら、その回転が遂行されるとき、理解は意志の理解となり、人間が欲するものを愛し、愛から欲するものを人間は考えるからである。かくて人間が恰も人間自身から幾多の悪に反抗して戦うかのように反抗して戦うことにより、幾多の悪から遠ざけられるとき、真理と善とを求める愛の中へ入ってくるのであり、その時にはその者が欲し、行う一切のものをその者は考え、話しもするのである。

奇跡:(神の摂理 130 より)

奇跡は、それを為す者により語られ、教えられたことは真であると力強く人間を説得し、捕らえることは否定できない。しかし、そのため人間は合理性と自主性の2つの能力を奪われ、理性に従って自由に行動し思考することができない。
奇跡から生まれた信仰は信仰ではなく、単なる説得にすぎない。


信仰とは内的な承認であり思考です。誰でも、自由に考えるという内的な自由をもっており、誰にも、他者の内的な考えを強制することはできません。
しかし、奇跡には強い説得力があり、理性的ではない宗教(オカルト?)を作る危険性があると思います。
(へちま)

創造の目的:(神の摂理 27 より)

天界は人類から生じ、永遠に主とともに住むことが天界であるゆえ、主はこのことを創造の目的として定められ、かくて天界は創造の目的であるため、それはまた神的摂理の目的である。
主は宇宙を御自身のために創造されたのではなく、ともに天界に住むことのできる者たちのために創造されたのである。
なぜなら霊的愛は、その持っている一切を他に与えようと願い、その願いを満たせれば平安と祝福を得るからである。霊的愛は、主の神的愛からその性質を得ている。
これらより以下のことが生まれる。
神的愛は、ひいては神的摂理は、天使となった人々また天使になりつつある人々からなる天界をその目的としており、主はこの者たちの中に居られることにより、愛と知恵の全ての祝福と幸福とを与えることができるのである。

1.愛と信仰、人間の再生

2.善と真理:(天界)

3.悪と誤謬:(地獄)