天界の秘儀-2:善と真理

スエデンボルグのArcana Coeletia(天界の秘儀:柳瀬芳意訳)を理解するために簡略に書き換えた抜粋No.2です。

天界と天界の喜び:

450.「自分達は高い所に置かれる時に天界にいるのであり、その位置から下の凡ての者を支配し、かくて自ら誇り、他の者よりも卓越することができる」 というのは誤った考えであり、天界は高い所にあるのではなく、どこであれ、愛と仁慈の中にいる者または自分の中に主の王国を宿した者のいる所にあり、又それは他の者よりも卓越しようと欲することにあるのでもないのである。なぜなら他の者よりも偉大になろうと欲することは天界ではなく、地獄であるからである。

452.「天界の喜びは最大の者になることにある」 というのは誤った考えであり、天界では、いと小さい者がいと大いなる者である。それは最小のものになろうと欲するものが最大の幸福を得、従って最大の者となるからである。なぜなら、最大の者は最も幸福な者でなくてなにであろうか。権力のある者が権力によって求め、富んだ者が富によって求めるものはこれである。
天界は最大の者になるために最小のものになろうとすることに在るのでもない。なぜなら、そうした場合にはその人間は実際は最大の者になろうと渇望しているからである。
しかし天界は以下のことに在るのである。すなわち、心から我々が我々自身に対して善かれと願うよりも他の者に対して良かれと願い、他の者の幸福を増進するためにこれに仕えることを願い、しかもそのことを利己的な目的からでなくて、愛から求めることに在るのである。

454.「天界は他にかしづかれる安楽な生活にある」 というのは誤った考えであり、幸福の手段として憩うことに幸福は在り得るはずはない。なぜなら、こうした場合人々は他の者を自分自身の幸福のために隷属させようと欲するであろうし、人各々がそうしたことを望むなら、だれ一人幸福を得ないからである。
このような生活は活動的な生活ではなくて怠惰な生活であり、そうした生活では人は感覚が麻痺してしまい、幸福は活動的な生活を除いては何処にも在り得ないことを知ることができよう。
天使の生活は用(役立ち)と仁慈の諸善の中に存在している。なぜなら天使は世からやってくる霊たちに教え、諭し、人間に仕え、その周囲にいる悪霊らを抑制して、これに適当な限界を超えさせないし、人間に善を鼓吹し、死者を永遠の生命へ甦らせ、かくて、もしその霊魂がそのことを可能にさせるようなものであるなら、その霊魂を天界へ導き入れる幸福にまさった幸福を知らないからである。この凡てから天使らは到底筆舌で言い尽くすことのできない幸福を覚えているのである。彼らは主の映像となり、かくて彼らは彼ら自身よりも更に隣人を愛しており、こうした理由から天界は天界となっている。
かくて天使の幸福は用(役立ち)の中に在り、用から発し、用に順応している。すなわち、それは愛と仁慈の諸善とに順応しているのである。
天界の喜びは安らかに生活し、怠惰に永遠の喜びを呼吸することにあるという考えを持った者は、このような生活は実際どのようなものであるかを経験させられるのであるが、暫くすると彼らもそれを嫌忌し、怠惰な生活は極めて悲しいものであり、凡ての喜びを破壊してしまい、それに嘔吐を催すことを認めるのである。

456.「天界の喜びと生活は、ひとえに主を讃え、崇めるにある」 というのは誤った考えであり、これは活動的生活ではなく、仁慈の諸善を行なう生活の結果である。なぜなら主は賛美を何ら必要とはされないのであって、ただ彼らが仁慈の諸善を行なうことを願われるのみであり、彼らが主から幸福を受けるのはその彼らが行う諸善に応じているからである。
最良の教育を受けた人々であっても、こうした諸善を行なうことに喜びを考えることができず、ただ奴隷状態を考えるのみである。しかし天使達は、このような生活は全ての中でも最も自由なものであり、それは言い尽くしがたい幸福に連結していることを証したのである。

459.三つの天界が存在している。すなわち、第一は良い霊たちの居所であり、第二は天使的な霊の、第三は天使の居所である。霊、天使的な霊、天使は全て天的な者と霊的な者に区別されている。天的な者とは、愛を通して主から信仰を受けた者達である。霊的な者とは、信仰の諸々の知識を通して主から仁慈を受け、その受け入れたものから行動する者たちである。

天界とその楽しさ:(「霊界日記」より抜粋)

5155.諸天界における凡ゆる楽しさ、祝福、繁栄、幸福、歓喜は用のための用の情愛(用を求める用に対する情愛)の中にあり、その情愛の質と量とに応じており、またその用の性質に応じている。実際、天界は幾多の用の王国であり、もし用以外のものが目的として顧慮されるなら、例えば、卓越、自己の栄誉や利得が目的として顧慮されるなら −それは用以外の自己や世を顧慮しているが− そのときは用のための用の目的が減退するに応じて、その情愛の性質は変化してしまう。なぜなら目的が自己のための用であり、それが顧慮されるに応じて人間は天界にいなくなり、天界の生命を欠いてしまうからである。
そしてもし自己のための用が主権を得るなら、彼は天界にはおらず地獄におり、その時は、いかような繁栄も内的な幸福も受けはしないからである。

5156.この楽しさと幸福とが天界の楽しさと幸福とにより意味されるものである。なぜなら愛のものである情愛が全ての歓喜と繁栄とを受ける器であり、そこから心情の楽しさと喜びの全てが生まれているからである。

5158.天界は幾多の用(役に立つこと)の王国である。そこには何かの用を遂行しない者は一人も居ない。用の種類は無数であり、彼らの意識しているようなもののみではなく、意識していないようなものがある。
そこには他の者たちに教える者がおり、善へ導く者、人間のもとにいる者、死んだ者を目覚めさせる者、守る者、他者に責任を持つ者がいるのである。約言すると無数の義務があり各々の者が各自の場所で用のための用を求める情愛に応じて何等かの義務を受けている。
かの情愛そのものが、その楽しさとともになって、聖言に意味されている報い、報酬となっている。
これから以下が明白である。すなわち、その情愛の歓喜そのものが報いであるため、何かに価しようとの願いはない。
そのことは子供達を優しく愛している母親と全く同じであり、その愛の中に楽しさがあり、彼女は雇われた乳母のように功績については考えず、その用を奪われるなら悲しみ、ただ己の楽しみを得るために所有物を進んで与えようとするのである。以上より彼女は功績の考えを斥けていることは明白である。

*)「天界の政治」について:(「天界と地獄」より抜粋)

218.天界の統治者は他にまさって愛と知恵におり、愛から全ての者の善を欲し、その善のためには如何に供えなくてはならないかを知恵から知っているのである。こうした統治者は支配したり、命じたりはしないで、仕え、また奉仕している。なぜなら善に対する愛から他の者に善を為すことは奉仕することであり、それを為すために供えることは仕えることであるから。
彼らは自分自身を他の者より優れたものとは考えないで、劣ったものと考えている。なぜなら彼らは社会と隣人の善を第一位において、自分自身の善を第二位においており、第一位にあるものは優れているが、第二位にあるものは劣っているからである。
彼らは尊敬と栄誉を得、他の者よりも高い地位にあって、社会の真中に住み、壮麗な宮殿に住んでいるが、彼らは自分自身のためではなく、服従のために、この栄誉と尊敬を受けさえもしている。なぜなら全ての者は、自分たちは主から尊敬と栄誉を受けており、主のために他の者が服従しなくてはならないことを知っているからである。
これが以下の、主の弟子たちへの御言葉の意味である。
「だれでもあなたたちの間で偉大になりたい者は、あなたたちに仕えるものとならなくてはならない。また、あなたたちの間で第一になりたい者は、あなたたちに仕える者とならなくてはならない。そのように人の子も仕えられるためではなく、仕えるために来たのである。」(マタイ20.27,28)
「あなたたちの間で最も偉大な者は最も劣った者のようになり、主だった者は仕える者のようにならなくてはならない」(ルカ22.26)

快楽:

995.他生で幸福になろうと欲する者は、身体とその感覚の快楽は人間を霊的な天界的な生命から引き出し遠ざけてしまうという理由から斥けなくてならぬと考える者がいる。しかし、そのように考え、そのため世に生きている間に自分から進んで悲惨な境遇に身を投じる者は、真の実情に通じていないのである。
たれ一人身体とその感覚の快楽を楽しむことを禁じられてはいないのである。
生きている内的な情愛はその歓喜を善と真理から得ており、善と真理は仁慈と信仰からその歓喜を得ており、また主(生命そのもの)から得ており、そこから発している情愛と快楽は生きているのである。
世で権力、高貴、富裕の中に生きて、感覚のあらゆる快楽を満ち溢れるほどにも得た多くの者が天界の祝福された幸福な者の間にいるのであり、かれらのもとでは内的な歓喜と幸福とは、それらが仁慈の諸善と主に対する信仰に属する諸真理から発していたため、生きているのである。彼らはその快楽を、彼らの目的である用(役立ち)から発したものとして認めたのである。用それ自身(隣人への役立ち)が彼らには最も喜ばしいものであり、そこから彼らの快楽の歓喜が発したのである。


996.「食用の青物」は、歓喜の中でも下劣な、単に世的な形体的なものであり、または外なるものであるにすぎないものを意味している。
人間の身体の、
または最も外なるものの中に在る快楽は、より内的な歓喜に起源を持っており、それが内なるものに進むにつれて益々快い幸福なものになっている。
人間が身体内に生きている間の快楽は、他生における善良な霊の歓喜には比較できないほど卑賤なものである。

自由:

892.人間は再生すると、その時始めて自由の状態へ入るが、それ以前は奴隷の状態にいるのである。処々の欲念と誤謬とが支配している時は奴隷であり、善と真理との情愛が支配している時は自由である。自由がいかようなものであるかは人間は奴隷状態にいる限り認められず、自由の状態に入った時にのみ認めることができる。
彼は奴隷状態にいる時は、すなわち、欲念と誤謬に支配されている時は、自分は自由の状態にいると考えているが、これは非常な誤謬である。なぜなら彼はその時いくたの欲念とその快楽の歓喜により、すなわち悪の歓喜により拉致され、これが歓喜によって行なわれるため、それが自由であると彼には見えるからである。人は各々何らかの愛により導かれていて、それに従っている間は、自分は自由であると考えているが、しかし彼を連れ去りつつあるのは悪魔的な霊どもであって、彼はその仲間の中に、いわばその奔流の中に置かれているのである。これをその人間は最大の自由と考えて、この状態を失えば自分は最も悲惨な生命に、実に死にも至ると信じるほどにもなっている。彼がこう信じているのは、彼が他の生命の存在を全く知らないためばかりでなく、何人も悲惨、貧乏、快楽の喪失によらなくては天界に入ることはできないという印象の下に置かれているためである。しかしこの印象は誤っている。
人間は再生し、善い真のものを求める愛を通して主により導かれないうちは決して自由の状態へは入らない。彼はこの状態に置かれたとき、始めて自由の何であるかを知り、また認めることができるのである。それは、彼はその時、生命の何であるかを、生命の真の歓喜の何であるかを、幸福の何であるかを知るからである。それ以前は彼は善の何であるかを知りさえもしておらず、時として最大の悪を最大の善と呼びさえもするのである。主により自由の状態に置かれている者は欲念と誤謬との生活を見る時に、又それを感じる時、地獄が眼前に開くのを見る者のようにそれを嫌悪するのである。
しかし自由の生命の何であるかは大多数の者には全く知られていないため、ここにそれを簡単に定義づけよう。自由の生命は、または自由は、主によって全く専ら導かれることである。
しかしこれが自由の生命であることを人間が信じることができないのは、人間が悪魔的な霊どもの支配から自由にされるために起きる試練を受けるためであり、また人間は自己と世を求める愛から発した欲念の歓喜以外の歓喜を何ら知らないためであり、また人間が天界の生命のあらゆる事柄について誤った考えを抱いているためでもあり、このように多くのものに妨げられるため人間は生きた経験によらなければ説明的な記事によっては充分に教えられることができない。

無であることの意義:(霊界日記より)

2043.霊たちは、「わたしたちは自己を虚しくする過程を経なくてはならない、または無とならなくてはならない」と言われていることの中に意味されていることを理解しなかった。なぜなら彼らは、自分らは自分自身のものを失うことにより全く空しいものとされてしまい、そのため人間も霊も知的には自分自身の主人ではなくなって、感覚と反省を欠いた機械のようなものになってしまうであろうと考えたからである。
こうした霊は、しばしば私(スウェーデンボルグ)に、「あなたは無でなくてはならない、無とならなくてはならない」と言ったが、しかし彼らは無であることの中に含まれている意味を理解しなかったため、おどけて言ったのである。
しかし私は彼らに以下のように答えることを与えられたのである。すなわち、「それこそ私が望んでいることである。すなわち、無であること、実に、絶対的に無であることが私が望んでいることである。なぜなら、その時、私は初めて何か意義のあるものとなり始めるからである」、と。

2044.彼らはその後、以下のことを教えられた。すなわち、(この場合)無であることにより、人間は人間自身のものであるものを、すなわち、彼のいくたの欲念を失わなくてはならない、かくて彼のいくたの不法を失わなくてはならない、そのことにより彼は他の人物として存在するようになることが意味されており、彼らは彼らのものを失わないうちは決していかようなものにもなることができないのであり、彼らがそうした損失を経験するに比例し、または無の状態になるに比例し、何らかのものとなり始めるのであり、その時かれらは、何であれその望むものを、また考えるものをことごとく得るのである。
なぜなら彼は、彼自身に対して無である限り、また無である広がりに応じて、主により適当なものを望むことが与えられ、またそうしたものを豊かに得て、それを歓びをもって、また絶え間もなく楽しむからである。この根底に立って彼は無限の恩恵を与えられ、それを最深の楽しさと歓びとをもって受け入れ、またそれを他の人間がその喜ばしいものを得て覚える知覚にも遥かにまさった知覚をもって楽しむのであり、そうしたものに伴っている無限の変化はいわずもがなのことである。その知覚と認知とは−彼らはそうしたものは消滅してしまうであろうと考えはしたものの− 自己愛が彼らの歓喜を支配する原理でなくなるとき、無限に高められるのである。
その霊たちは、このように教えられて、反省し、望み始めたのである。

天使は過去の記憶も将来の推測も持たない:(霊界日記より)

2188.天使たちは、益々内的なものとなり、完全なものとなるにつれ、益々過去のことを憶えなくなり、そこに彼らの浄福があるのである。
なぜなら各瞬間に主は彼らに楽しいものを、また彼らが考えて心を動かされるものを彼らに与えられるからであり、それは主のものであって、彼らのものではない。
そのことが、私たちに日毎のパンを与えてください。私らは何を食べようか、何を飲もうか、と将来のために心を痛めてはならない。日毎に私らはマナを受けるであろう。という記事により意味されているのである。
彼らは過去のことを憶えていないため、将来のことを予想はしない。なぜなら予想は記憶から生まれてくるからである。それでも彼らは記憶を持っているように彼ら自身には思われ、また無数の事項を知っているのであるが、その理由は、主はそれらのものをその各瞬間に与えられるからである。
約言すると、天使の浄福はそのことから成っており、それはまた、彼らは主の中にいるためである。

2190.将来のことについて推測し、過去を追想することは生命の楽しさと浄福とをことごとく取り去るものである。そこからまた不安、心労、憂慮が生まれてくる。それで浄福の中にいるような者たちには、こうした記憶とこうした予測を持つことは与えられることはできない。
それでも彼らは自分たちは最高の記憶を、深慮を、または思考を持っているとしか考えはしないのである。なぜなら、彼らは主からそうしたものを、従って神的なそうしたものを得るからである。

知恵の光:

1555.信仰の諸真理と諸善とにかかわるいくたの知識により得られるものは理知の光と呼ばれているが、しかし知恵の光はそこから得られる生命の光である。理知の光は知的な部分または理解に関わっているが、知恵の光は意志の部分または生命にかかわっている。

いかようにして人間は真の知恵に至るかを知っている者は、たとえいるにしても、僅かしかいない。理知は知恵でなく、知恵にみちびくものである。真で善いことを理解することが真で善い者であることではなく、(知恵のある)賢い者が真で善い者である。知恵は生命にのみ述べられるのである。
人間は知ることを手段として、すなわち知識を手段として知恵に、または生命に導入されるのである。人間には意志と理解の2つの部分があり、意志は第一義的な部分であり、理解は2次的な部分である。死後の人間の生命は意志の部分に順応していて、知的な部分には順応していない。

意志は人間の中に幼少期から子供時代にかけ主により形成されつつあり、それは秘かに注ぎ入れられる無垢により、また両親、乳母、同じ年頃の子供達に対する仁慈により、また人間には全く知られていない天的なものである他の多くのものにより行なわれるのである。こうした天的なものが先ず人間の中へ幼少期と子供時代に徐々に(秘かに)注がれない限り、彼は決して人間となることはできない。このようにして最初の面が形成されるのである。

しかし人間は理解を与えられない限り人間ではないため、意志のみが人間を作るのではなく理解が意志とともになって人間を作るのであり、そして理解は知識によらなくては決して得られないため、彼は子供時代から徐々に知識を教えられなくてはならない。このようにして第二の面が形成されるのである。

知的な部分が知識を、とくに真理と善とに関わる知識を教えられると、そのとき初めて人間は再生されることができるのであり、そして彼が再生しつつあるとき、いくたの真理といくたの善とは、彼が子供時代から主により与えられていた天的なものの中に知識を手段として、主により植え付けられ、かくて彼の知的なものは彼の天的なものと一つになる。そして主がこのようにこれらのものを連結されたとき、その人間は仁慈を与えられて、彼はその仁慈から行動しはじめるのであり、この仁慈は良心に属している。
このようにして彼は初めて新しい生命を受けるのであって、これは徐々に行なわれるのである。この生命の光が知恵と呼ばれており、それはそのとき第一位を占めて、理知の上に置かれているのである。このようにして第三の面が形成されるのである。
人間が身体の生命の間にこのようになると、そのときは彼は他生で絶えず完成されつづけるのである。

以上より理知の光とは何であるか、知恵の光とは何であるかが示されるであろう。

無垢:

1557.人間は天的なものとは何であるか、世的なものとは何であるかを知らないうちは天的なものと世的なものとを区別することはできない。知識は全般的で明確でない観念を確実なものにするのであって、観念が知識により明確にされるに応じて、ますます世的なものは分離されることができる。

しかしそれでも子供のような状態は、それが無垢なものであるため聖いものである。無知はその中に無垢が存在しているときは、聖いものを決して排除しはしないのであり、聖いものは無垢である無知に宿っている。主を除いて、全ての人間のもとには、聖いものは専ら無知の中に宿ることができるのであって、もしそれが無知の中に宿ることができないならば、人間は聖いものを持たないのである。理知と知恵の最高の光の中にいる天使たちのもとでさえも、聖いものはまた無知の中に宿っているのである。なぜなら彼らは、自分達自身では何事も知ってはおらず知っていることは全て主から発していることを知り承認しているからである。彼らはまた彼らの記憶知、理知、知恵は主の無限の知識、理知、知恵に比較するならば無に等しいものであり、かくてそれは無知であることを知り、また承認もしているのである。自分が知っている物の彼方には、自分の知らない無限のものが存在していることを承認しない者は天使達がその中に宿っている無知の聖いものの中には宿ることはできないのである。

無知の聖いものは、他の者以上に無知であるということにあるのではなく、人間は自分自身では何事も知っておらず自分の知らないものは自分が知っている物に比較するなら無限であることを承認することにあり、特にそれは人間が記憶と理解の事柄を天的なものに比較するなら、すなわち、理解の事柄を生命の事柄に比較するなら殆ど無価値なものに見做すということにあるのである。

天的な天界について:(霊界日記 より)

4674. 私(スエデンボルグ)は主の天的王国に属している者たちと頻繁に話した。
彼らは情愛の中へ流れ入り、もし思考の中へ流れ入るにしても、そのことは情愛を手段として行われるのである。
彼らは霊的なスフィア(領域、霊気)の上方の、さらに優れたスフィアの中に現れており、それは彼らが益々完全なものとなるに応じて、さらに高い所にいるためである。
私は天的王国の中間の地域にいる者たちと多く話し、そこでの彼らの状態について知らされたのである。
彼らは彼らの場所の中に留まってはいるが、しかし実は、絶えず徐々に継続的に左から右へと移されており、それで、ある方法で、最も内なる旋回が行われており、それが彼らを周囲に引き寄せてはいるものの、そのことを彼らは全く知っていないのである。彼らは、自分たちは自分たちの邸宅にいる限り同じ場所にいる、と主張している。
また、私は彼らの得ている光を見、また下の方にも一人の幼児がいる光を見たが、その光は地上の真昼時の光にも無限に優っているほどにも輝いているのである。私はそれを地上には暗黒がたれこめていたとき見たのであり、その時、彼らの下にある部分が開かれたが、そのことは雲が通り過ぎて、その真中が開かれる時に光が現れてくるときのように起こったのである。
そのとき、私は彼らをその光の真中に見たのである。

4675. そこでは全ての者は、その親類の者とともに、かれら自身の住居に住んでおり、主が聖言で言われているように、その住居は邸宅である。そこには室とホールがあり、外側にはパラダイス(楽園)が在り、そこで彼らは楽しむのである。
彼らは下にいる者たちを見て、これと交流を持とうと願うときは、その室の戸を開き、次には家の戸やホールの戸を開くのであり、戸を開くにつれて交流することができ、戸を閉じるにつれ交流は止むのである。
これらの事から、なぜ主が、自分は戸であり戸の番人である、と言われたかが明らかである。すなわち、その調停は主から行われるのである。

4676. かの中間の天的王国に属している者たちの中で多くの者はアジアの地域から来ており、その中で特に多くの者は宣教師たちによりキリスト教に転向したのである。
これらの者は主を承認し、信仰が救うのか仁慈が救うのかという紛糾した問題と討論を意に介さず、法王は教会の頭首であるか否かも意に介しはしないで、キリスト教徒として生きているのである。
こうした者たちの大半の者は、そこで永遠の祝福を享受しており、その祝福と知恵とは、それが余りに卓越したものなので、誰にも表現も信じもできはしないのである。

上記の抜粋で驚くのは、江戸時代に「踏み絵」などで弾圧されたキリスト教徒と思われる人々が天的王国に属しているということです。(2010.10.30)

天使の憤り:(天界と地獄 より)

9.生命のただ一つの源泉である主からは、神的善と神的真理以外には何物も発出しない。
この神的善と神的真理は、各人がそれを受けるに応じて感動させており、それを信仰と生活の中に受ける者はその中に天界を持つが、それを斥け窒息させる者はそれを地獄に変化させる。なぜなら、彼らは善を悪に、真理を誤謬に変え、かくて生命を死に変えるからである。
天使たちは、生命の全ては主から発していることを、以下により確認している。
宇宙の全ての物は善と真理に関係しており、人間の愛の生命である意志は善に、人間の信仰の生命である理解は真理に関係している。善と真理との全ては主から来ているため、生命の全てのものもそこから来ていることが推論される。
天使たちは、生命の全ては主から発していることを信じているため、その為す善に対する感謝を一切拒絶し、もし誰かが彼らに善を帰すならば、憤って、身を退けてしまう。
彼らは、誰かが自分は自分自身から賢くなり、自分自身により善を為すと信じていることを不思議に思っている。
自分自身のために善を為すことは自己から為されているため、彼らはそれを善とは呼ばない。しかし彼らは善のために善を為すことを、神的なものから発した善と呼び、神的なものから発した善は主であるため、この善が天界を作っていると言っている。

直接的な慈悲:(天界と地獄 より)

524.もし人間が直接的な慈悲によって救われることができるなら、全ての者は、地獄にいる者さえも救われ、実に地獄は存在しないであろう。
なぜなら、主は慈悲そのもの、善良そのものであられるから。
主は全ての者を救うことができるのに彼らを救わないというのは、その神的なものに反している。
主は全ての者の救いを望まれ、誰一人地獄に落ちるのを望まれないことは聖言から知られている。

525.キリスト教世界から他生に入ってくる者たちの大半は、自分たちは直接的な慈悲により救われることができるという信念を抱いてくる。
彼らは、天界に入ることは単に入ることを許されることであり、入れられた者は天界の喜びを得ると信じており、彼らは、天界と天界の喜びとは何であるかを全く知っていない。
それで彼らは、天界は主によって何人にも拒まれておらず、あなたらも入って良いと言われたのであるが、その最初の入口に立つと、天使たちの浴している愛と真理である天界の熱と光が流れこんできて、不意に非常な心の苦悶におそわれ、狼狽のあげく我が身を真っ逆さまに下に投げつけたのである。

526.世で悪に生きている者の大半は、単に慈悲のみから天界に入るという考えしか述べない。そのことは信仰を救いの唯一の手段としている者により特に信じられており、こうした人物は、その宗教の主義から、父なる神は御子の執成しのため慈悲を抱かれると信じている。
これらに対し、誰一人直接的な慈悲により天界に入れられるのを自分たちは見たことがない、と天使たちは宣言した。

527.天界の生活に反した生活を世で送った者らに天界の生活を植えつけることは不可能であることを私(スエデンボルグ)は多くの経験から証することができる。
神の真理を天使たちから聞けば、それを受け入れて信じ、異なった生き方をして天界へ入れられると考えた多くの者が、それを試みはしたが、そのことは死後に悔い改めは不可能であることを彼らに知らせるためであった。
ある者は、世で得た自分の愛の生命が取り去られて、天使の生命が代わりに注入されるように願い、そのこともまた許しにより為されたが、彼の愛の生命が取り去られると死んだように伏して知覚を持たなくなった。
このような種々の経験から、以下のことを教えられた。
霊は各々、頭から足の先までその愛と同一のものであり、従って、その生命と同一のものであるため、いかなる生命であれ、その生命は死後に変化することはできない。悪い生命は善い生命に、奈落の生命は天使の生命に決して変質することはできず、この生命を反対のものに変質することはその霊を破壊することである。
人間は死後もその生命が世であったその状態にとどまる。
これらの事から、誰一人直接的な慈悲から天界に迎えられることはできないことを認めることができよう。

善良な霊:(霊界日記 より)

4160.その身体の生命において私(スエデンボルグ)に知られていた或る女性は、他生で、死後数週間の後、祝福された者たちの間にいることができたのである。
彼女の内部は開かれており、正しく感じ認めもしたのであり、楽園の光景の真中にいる時、それを眺めて、「そうしたものは幸いなことでなく、真の幸福はさらに内的なものである」と言ったが、そのことで霊は驚き、天使たちは彼女が内的な原理から主を承認することを認め、驚きもしたのである。
彼女は、地上で富と華麗と高位の中に生きた者たちの間から来ていたのである。

天使の力:(天界と地獄 より)

「大いなる力を持つ天使たちよ、エホバをたたえよ」(詩103.20-21)

229.しかし霊界では天使たちの力は非常なものであって、もし私(スエデンボルグ)がそのことに関連して見たものを全て記すなら信じられないであろう。
もしそこに何かが抵抗し、それが神的秩序に反しており、とりのぞかなければならぬとするなら、彼らは単に意思の努力と一瞥のみでそれを投げ捨て、覆すのである。このように悪い者らで占められていた山々が投げ下ろされ、覆され、ときには地震のように一方の端から他方の端までも揺す振られるのをみたのである。また、岩が真中から根元までも口をあけて、その上にいた悪い者らが呑み込まれるのを見たのである。
彼等には、数も術策も狡知も連盟も何らの効果をもたない。なぜなら天使らは全ての者を見て、一瞬にして悪霊らを追い散らすからである。
彼らは、許されると、自然界でもそのような力を振るうことは聖言から明白である。例えば彼らは軍隊全部を滅ぼし、疫病をもたらし、そのため7万人が死んだのである。(サム後24.16)

1.愛と信仰、人間の再生

3.悪と誤謬:(地獄)

4.教会:(真の信仰)