天界の秘儀-4

スエデンボルグのArcana Coeletia(天界の秘儀:柳瀬芳意訳)による創世記の内意を理解するための抜粋No.4です。

教会の衰退:

468.教会(真の信仰)は時の経過と共に衰退して、ついには少数の者の間にしか存続しないということが教会各々の実情であって、洪水の時にその教会がそのもとに存続していた少数の者が「ノア」と呼ばれたのである。
残された者は聖書に「残りもの」「残った者」と呼ばれ、「地の真中に」または「真中に」いると言われている。
そしてこのことは全般的なものに当てはまると同じく個別的なものにも当てはまり、または教会に当てはまると同じく各個人にも当てはまっている。霊的な天的な生命が残りのものの中に在る以上、その残りのものが人間各々の中に主により保存されないなら、かれは永遠に滅びなくてはならないからである。全般的なもの、又は普遍的なものも同じであって、教会または真の信仰がそのもとに存続している若干の者が常に存続しなくては、人類は滅んでしまうのである。なぜなら一般に知られているように、一つの都が、否、一つの国全体が少数の者のために救われるからである。此の点では教会も人間の身体も同じである。心臓が健全である限り生命は維持するが、心臓が衰弱するとき身体の他の部分は栄養の吸収が不可能となって人間は死んでしまうのである。
最後の残りの者は「ノア」により意味される者である。

最古代教会:

597.最古代教会は霊や天使たちと交わることにより、また幻と夢により主から直接に啓示を受け、かくして彼らは善で真のものを全般的に知ることができたのであり、その後は、この全般的な指導原理が、認識により無数のもので確認されたのであり、この無数のものは、それが関連している全般的な原理の細目又は個々のものであったのである。かくて全般的な指導原理は日々確証され、その全般的な原理に一致しないものを凡て彼らはそのようなものでないと認め、それに一致したものを凡てそのようなものと認めたのである。かくの如きが、また天的な天使たちの状態である。
最古代教会の全般的な原理は天界の永遠の真理であった、例えば、主は宇宙を支配されている善と真理は尽く主から発している生命は尽く主から発している人間自身のものは悪以外の何物でもなく、それ自身では死んだものである、その他それに類した性質の多くのものであった。そして彼らはこの真理を確認し、支持する無数のものを主から認識したのである。
彼らにあっては愛が信仰の第一義的なものであった。愛により彼らは主から凡て信仰に属したものをことごとく認識することができたのであり、かくて前に述べたように、彼らのもとでは信仰が愛であった。

560.洪水以前の教会の人間は、時が経つにつれて、(最も法外な自己愛に取り付かれて自分自身が神にようなものであるという)恐るべき信念を抱き、信仰の諸々の善と真理を醜悪な諸々の欲念に浸し、かくて彼らの中にはほとんど如何様な「残りのもの」もなくなってしまい、彼ら(ネピリム:力ある人間)は此の状態に入ると、(洪水のような悪と誤謬の氾濫により)あたかも自分自身から窒息するかのように窒息してしまったのである。
なぜなら人間は「残りのもの」がなくては生きることはできないからであり、人間の生命が獣の生命よりも優れているのは、「残りのもの」によっているからである。主から「残りのもの」を通し、人間は人間として存在し、善い真のものを知り、あらゆる種類の事項を反省し、考え、論じることができるのである。
なぜなら「残りのもの」の中にのみ霊的な天的な生命が存在しているからである。

561.残りのもの」とは、人間が幼少の頃から主の聖言から学び、かくしてその記憶にきざみつけた諸々の善と真理であるのみでなく、そこから由来している全ての状態である。例えば、幼少の頃の無垢の状態であり、両親、兄弟、教師、友に対する愛の状態であり、隣人に対する仁慈の状態であり、また貧しい者や困窮した者に対する憐れみの状態であり、約言すると、善と真理のあらゆる状態である。
これらの状態は記憶に刻み付けられた諸善と諸真理とともになって「残りのもの」と呼ばれ、主により人間の中に保存され、人間に固有な諸々の悪と誤謬から完全に分離されているのである。

ネピリム(力ある人間)とは?

1266.死滅した洪水以前の者は、一種の霧のような岩で覆われた地獄の中にいる。
彼ら
(ネピリム:力ある人間)は、その恐るべき幻想により、その信念の発散物と毒気とにより、善良なものを除いた全ての出会う霊たちから考える能力を取り去ってしまうといった性質をもっている。
そして主が、肉の中に来られることによって、霊たちの世界をこの極悪の一味から解き放たれなかったならば、人類は死滅してしまったことであろう。なぜならその時はいかような霊も人間のもとにいることはできなかったであろうし、しかも霊たちと天使たちとが人間のもとにいないなら、人間は一瞬も生きることはできないからである。

1267.彼らの最大の歓喜は、他者を彼らに服従させて(支配し)、他者をいわば屠殺してしまうことにある。かれらを駆り立てているものは、全ての者を破壊しようとする生来の狂った熱情であり、彼らは出会う者らをことごとく捕らえ(支配し)てしまう。

1268.彼らの信念、すなわち彼らが身体の生命の中で信じていたことについて話した。彼らは「自分らは神については非常に考えたが、神は存在せず人間が神であり、それで自分ら自身が神である、と自らに説きつけたのである」と答えた。

1271.彼らの、恐るべき説きつける感化力は、他の者を(包み込み)窒息させるものであることが明らかに認められた。
彼らは自分自身が全能であると信じていたのであるが、彼らは小さな子供の前に立つと、よろめき、たじろいで、自分らは苦しみ悶えていると叫び出し、しかもそれが膝まづいて哀れみを懇願するほどにも激しかったのである。

古代教会:

605.ノア」と呼ばれた古代教会の形成はあらゆる種類の生きた物が中へ入れられた箱舟により記されているのである。新しい教会が起こり得る以前には、教会の人が多くの試練を受けることが必要であったのであり、その試練が箱舟を上げることとそれが洪水の水の上にただよって、遅くまでそこにいたことにより記されているのである。最後に彼が真の霊的な人となって、自由にされたことが、水が引いてしまったこととその後に起こった多くの事項により記されているのである。

607.最古代教会は天的なものであったが、古代教会は霊的なものになった。最古代教会は善と真理を認識していたが、古代教会は認識を持たないで、それに代わって良心と呼んでよい他の種類の指示をもっていたのである。

608.かれらは最早最古代の人のように内なる人を通して教えられることができなくなり、外なる人を通して教えられたのである。それ故最古代教会の啓示の代わりに、教義的な物が続いて起こったが、それは先ず外なる感覚により受け入れられることができて、そこから記憶の物質的な観念が形作られることができ、その物質的な観念から思考のいくたの観念が形作られ、それにより彼らは教えられたのである。

628.最古代の人々は主に対する愛を持っていたため、善の意志を持っており、その意志から彼らは真理を理解したが、しかし此の理解は意志と共に全く消滅してしまったのである。しかし「ノア」と呼ばれる者たちの許には自然的な善のみでなく一種の合理的な真理が残っていて、そのため彼らは再生することができたのである。

635.「残りのもの」を通して主が働きかけられることが信念のために妨害され、吸収されてしまわなかったため、「残りのもの」を通してこの人々は再生することができたのである。
信念又は誤謬の原理は、それが根を下ろすと、凡ての働きを妨害するのであり、それが先ず根絶されない限り、人間は決して再生することができないのである。

人間の改良による信仰の誕生:

652.古代教会の人間は以下の方法で改良されたのである。
人間の生命には二つの部分があり、一は意思であり、他は理解である。その意志が存在せず、意志の代わりに欲念が存在するとき、生命は二つに分離する。その時改良されることができるのは理知的な部分であって、この部分を通して新しい意志が与えられることができ、かくて、その二つに分離したものが一つの生命を、すなわち、仁慈と信仰を構成することができるのである。
人間は意志を持たないで、意志の代わりに単なる欲念を持つ者となったため、(主により)意志に属した部分は閉じられ、他の部分すなわち知的な部分が開かれたのである。

653.人間は改良されつつあるときは--それは争闘と試練とにより遂行されるのであるが--かれの知識と理性のいくたのもの以外には何物をも刺激しない悪い霊らが彼と交わり、欲念を刺激する霊らは全く彼から遠ざけられている。
悪霊には二種類あり、一は人間の理性(色々と推理すること)に働きかけ、他は人間の欲念に働きかける。
人間の理性を刺激する悪霊はあらゆる誤謬を持ち出し、それらが真であると彼に説きつけようと努力し、真理を誤謬に変えさえするのである。人間は試練におかれた時はこれらと戦わねばならないが、その人間に接合している天使たちを通して戦われるのは実に主である。
誤謬がこれらの争闘によって分離され、いわば散らされるや否や、その人間は信仰の諸真理を受け入れる備えがなったのである。なぜなら誤謬が支配している限り、誤謬のために妨害されて、人間は決して信仰の諸真理を受けることができないからである。信仰の諸真理を受ける備えがなると、その時始めて彼の中に仁慈の種子である天的な種子が植え付けられることができるのである。
霊的な人の改良または再生はこのようなものであり、「ノア」と呼ばれる此の教会の人間も同様であったのである。

654.このことは現今諸教会に知られていることに、すなわち、信仰は聞くことによって生まれるということと一致している。しかし信仰は信じなくてはならない事項を知ることでは決してない。それは単なる記憶にすぎないが、信仰は承認である。
信仰の第一義的なものが人間の中に存在しないかぎり、何人のもとにも承認は存在していないのであって、信仰の第一義的なものとは仁慈であり、すなわち、隣人に対する愛と慈悲である。仁慈が存在しているとき、その時承認または信仰も存在している。
そのように把握していない者は地が天から離れているようにも遥かに信仰の知識からは離れているのである。
それゆえ人間が知識、理性、理解のいくたの事項に応じて再生されつつあるときは、それは彼の心が仁慈を受ける備えをなすためであって、後には仁慈から、または仁慈の生命から、かれは考え、行動するのである。その時かれは改良され、または再生するのであって、その前ではない。

雲と虹:

1042.「わたしはわたしの虹を雲の中においた」
これは再生した霊的な人間の状態を意味しており、その状態はに似ているのである。
霊的な天使たちは、他生では頭に虹のようなものを着けて現れ、この天使たちは「水と霊」で再生すると言われる者であるが、天的な天使たちは「火」で再生すると言われている。

1043.ここに「」と呼ばれているものは、その者の誤謬(暗さ)である。主により、その者の中へ無垢、仁慈、慈悲が徐々に注ぎ込まれると、この雲から、主から発した真理とともになって、色彩を持った「虹」に似た、真理の外観が発してくるのである。
主は仁慈を通して彼らの雲の上に働きかけられ、そこから光が発するのであって、それは太陽が雲に差し込むと、雲は明るくなり多彩な色を帯びるのに似ているのである。
雲が希薄であればあるほど、すなわち、誤謬の中に信仰の諸真理が多ければ多いほど、その虹は益々美しくなるのである。
無垢はその美を非常に増大させ、その色彩に生きた光輝のようなものを与えている。

霊的な人間にはこのような
(誤謬)が在るが、天的な人間にはそれ程大きい雲は存在していない。それは彼はその意志の部分に主に対する愛を植え付けられており、それで彼は主から善の認識を受け、またそこから真理の認識を受けているためである。人間の意志の部分が天的な焔の熱線を受けることができるようなものである時、彼の理知的な部分はそれにより明るくされ、かくて彼は愛から信仰の諸真理である事項をことごとく知り、認めるのである。
かくて天的な人間の意思の部分は小さな太陽に似ており、そこから熱線が彼の理知的な部分に輝き入るのである。かくのごときが最古代教会(アダム)の人であった。

しかし
(善悪を知る知識の木の実を食べて)人間の意志の部分が全的に腐敗し、奈落的なものとなり、それゆえ良心である新しい意志が彼の理知的な部分に形成されたとき、古代教会(ノア)以降の再生した各々の場合がそうであったが、その者の雲は厚いのである。その時はまた、誤謬が絶えず地獄から彼の黒い意思の部分を通して流れ入ってくるのである。

ここから、この「」とは霊的な人間が天的な人間に比較して明確でない光の中に宿っていることを意味しているのである。

1044.
再生した人間の知的な部分は、主がその中に現存されている仁慈から天界であり、彼の意思の部分は地獄である。
主がこの天界の中に現存されているに応じ、それに比例してこの地獄は遠ざけられるのである。なぜなら人間は人間自身では地獄の中におり、主により、天界の中にいるからである。そして人間は絶えず地獄から天界へ挙げられつつあり、彼が挙げられるに応じて、それに正比例して彼の地獄は遠ざけられるのである。
それゆえ主が現存されているという「」は、またはそのことを示すものは、人間の意志の部分が遠ざけられるということである。
それが遠ざけられる可能性は試練により、また他の多くの再生の方法により行われるのである。

礼拝:

1102.セム」とは内なる礼拝を持つ人間であり、外なる礼拝は、それを生かし浄める内なる礼拝がなければ生命のない不潔なものである。
内なる礼拝とはなにかを簡単に述べよう。
それは、主と隣人についての良い思いを自分自身の中に持っていると感じ、自分自身のための利得や名誉のためではなく、隣人のために何か親切な務めを果たしたいと願うとき、また、困っている者に対してあわれみを抱いていると感じるとき、その時かれは「セムの天幕」に住んでいることを、すなわち、自分の中に内なる礼拝を抱いていて、主はそれを通して働かれていることを知ることができよう。

1150.ヤペテの息子たち」とは内なる礼拝に相応した外なる礼拝をもっていた者たちを意味している。
内なる礼拝とは、心から主を崇拝することであり、それは仁慈または隣人に対する愛が存在しない限り決して有り得ないのである。
「ヤペテの息子たち」は、お互いに相互的な仁慈の中に、友情の中に、礼儀の中に、単純の中に生き、それで主は彼らの礼拝の中に現存されたのである。
しかし彼らが主を否定し、自分自身のみを愛し、隣人を意に介さず、特に、もし憎悪を抱くならば、その礼拝は内なる礼拝から分離した外なる礼拝であり、彼らは「カナンの息子」となる。

1153.真の礼拝は凡て主を崇拝することから成っており、主を崇拝することは卑下から成り、卑下は自分自身の中には生きたものは一つとして無く、善いものも一つとして無く、自分の中の凡ては死んだものであり、実に屍のようなものであることを自分が承認することから成り、また生きたものは凡て、善いものは凡て主から発していることを承認することから成っているのである。
人間はこうしたことを口ではなく心で承認するに応じて、益々卑下の状態におり、従って益々崇拝の状態の中に、すなわち真の礼拝の中におり、愛と仁慈の中におり、益々幸福な状態にいるのである。
一方は他方の中にあって、分離できないほどにも連結しているのである。

聖言:(「白馬」より抜粋)

11またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。 12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。 13 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。 14 そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。 15 その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。 16 その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。(黙示録19.11-16)

1.これらの表現の意味するところは、その内なる意義(内意)によらなくては何人にも知ることはできない。
ここに記されているものは「聖言」であって、聖言は「主の名」であると明らかに言われている。なぜなら「彼の名は神の言と呼ばれ」、「その着物にも、ももにも王の王、主の主という名が記されていた」と言われているからである。
「天が開くこと」により、聖言の内意が天界で認められ、そこから世に居て天界を開かれる者たちに認められることが表象され、意味されている。
「白い馬」は聖言の内部を理解することを表象し、意味する。
「それに座られたかた」は聖言の方面の主であることは明らかである。なぜなら、彼は善から「忠実で公正に裁かれる」と呼ばれ、主御自身は公正であられるからである。
「彼以外には誰も知らない名がその身に記されていた」は、聖言の内意は主御自身と、それを啓示される者を除いては何人によっても認められないことを意味し、「白い馬に乗って彼に従った天の軍勢」は聖言の内部を理解している者たちを意味している。
これらの事柄から、また同章の前後から、教会の最後の時に、聖言の霊的な、または内なる意義が開かれることが予言されていることが明白であり、その時に如何ようなことが起るようになるかも記されているのである。

教会は人間の中にある:(「聖書」より抜粋)

78.主が人間のもとに現存されて人間に連結されるのは聖言によるのである。
なぜなら主は聖言であられ、その中でその人間といわば話されるからである。また主は神的真理そのものであられる。
このことから、人間が聖言を理解するに従って、主はその人間のもとに現存されると同時に、その人間と連結されることが明白である。
なぜなら人間は理解に従って真理とそこから派生する信仰とを得、また愛とそこから派生する生命とを得るからである。
そして主が人間と連結されるに比例して、教会はその人間の中に存在するのである。
教会は人間の中にあるのであって、人間の外にある教会は己の中に教会を持つ複数の人間が集まったものである。
このことが神の国は何時来ましょうか?と尋ねたパリサイ人に答えられた主の御言葉の意味である。

神の国はあなたたちの中にある(ルカ17.21)

ここで「神の国」は主を意味し、主から、教会を意味している。

教会の一新:(「聖書」より抜粋)

29 しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。 30 そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。 31 また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。(マタイ24。29-31)

14.これらの御言葉により、主は教会の終わりの状態を予言されている。
霊的意義では「
日は暗くなり」は愛の方面の主を意味し、「月はその光を放つことをやめ」は信仰の方面の主を意味し、「星は空から落ち」は、死滅するであろうところの善い真のものに対する諸々の知識を意味し、「人の子のしるしが天に現れる」は神的真理が現れることを意味し、「地のすべての民族は嘆き」は信仰に属した全ての真理と愛に属した全ての善との欠如を意味し、「力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来る」は、主が聖言の中に現存されて啓示されることを意味し、「」は聖言の文字の意義を、「栄光」は聖言の霊的意義を、「大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして」は、神的真理が発生してくる天界を意味し、「四方からその選民を呼び集める」ことは愛と信仰の方面で教会が一新することを意味している。

聖言の回復:(「聖書」より抜粋)

111.聖言がないなら主を知ることはできず、それで救いもないため、聖言がユダヤ民族の間で全く誤謬化され、不善化され、かくて虚しいものとなった時、主は天界から降って世に来られ、聖言を成就され、そのことによってそれを繕い、回復され、再び、以下に宣言されているように、地に住む者たちに光を与えられることを良しとされたのであった、

暗黒に座っていた民は大いなる光を見た、死の地と蔭とに座っていた者たちに、光が登った(マタイ4.16、イザヤ9.2)

112.主が天と地の神であられることを知り、また承認することも欠けている結果、また仁慈と信仰とを分離する結果、現今の教会の終わりに暗黒がおこるであろうと予告されているため、聖言の純粋な理解が死滅しないように、主は現在(1760年頃スエデンボルグに対して)、聖言の霊的意義を明らかにされ、聖言は霊的意義では、またそこから自然的な意義でも主と教会を取り扱っており、実にそのことのみしか取り扱っていないことを明らかにされた。また、さらに他の多くの事柄を明らかにされて、そのことによって、今や全く消滅しそうになっている聖言の真理の光を回復されることを良しとされたのである。

誤謬の確認:(「聖書」より抜粋)

93.人は各々死後天使たちから教えられ、真理を認め、真理から誤謬を認める者たちは受け入れられるのである。
霊的に真理を認める能力は、死後各人に与えられているため、(現世で)誤謬を確認しなかった者たちは真理を認めるが、(現世で)誤謬を確認した者たちは真理を認めようと欲しないため、真理に背を向けて、それを嘲笑するか誤謬化するのである。

94.このことを例で説明しよう。
聖言の多くの所に、怒り、憤り、復讐が主に帰せられており、また、主は罰しられる、地獄に投げ込まれる、試みられる、ということが多く言われている。
これらを全て単純に信じて神を怖れ、罪を犯さないように心を配る者は、その単純な信仰のために罪に定められることはない。
しかし、このような考えを確認し、怒り、憤り、復讐などの悪から生まれる色々な物が主の中に存在していると信じている者は罪に定められるのである。
なぜなら彼は、主は愛そのもの、慈悲そのもの、善そのものであられ、こうした方は怒ったり、憤ったり、復讐されたりできないという純粋な真理を破壊してしまっているからである。


95.
聖言の文字の意義の多くは外面的な真理であって、その中に純粋な真理が隠れているのであり、(外面的な)真理に従って考え話すことは有害ではないが、その中に隠れている純粋な真理を破壊するほどにも確認することは有害である。
これは自然界の例からも説明できる。
目には太陽は日毎に地球の周囲を回転するように見えるが、太陽は動かず日毎に地球が回転しているのが真理である。
単純に、また無知から太陽が回転すると考える人間は自然的な真理を破壊しないが、聖言により太陽の外観的な運動を真実なものとして確認する人間は、真理を不当な物として破壊するのである。
そうした確認、確信は合理的な理解を愚鈍にして、暗くしてしまうのである。

ケルビム:(「聖書」より抜粋)

97.さらに聖言の文字の意義は、その内に隠れている純粋な真理の警護者であることを知られよ。
文字の意義が人さまざまに理解されるのは有害ではないが、その中に秘められている神の真理が歪められることは有害である。
なぜならそれは聖言に暴行を加えるからであるが、文字の意義はそれを防いでいる。
この警護者も「ケルビム」により意味される。
これが聖言では、アダムが追放されたエデンの園の入口に置かれたケルビムにより意味されており、「生命の木の道」は人間が聖言によって主に近付くことを意味している。
そのことがまた、以下によっても意味された。

幕屋の箱の上に置かれた恵みの座の両端に置かれた金のケルビム。(出25.18-21)
主はその間からモーセと話された。(出25.22、37.9、民7.89)

主は完全なものに拠らなくては人間に話しかけられはしないのであり、そして文字の意義の聖言は完全な神的真理であり、それで主はケルビムの間からモーセに話しかけられたのである。

聖者礼拝:(「最後の審判とバビロンの滅亡」より抜粋)

63.神として祈り求められ、拝されようとする願いは、支配愛の最も内的なものであるゆえ、教皇令により聖者とされた者は、(霊界では)彼らを拝する者に見えぬように移され隠されて、全ての交渉を奪われる。これが為されるのは、諸悪の根源が彼らの中に刺激されて、(世で他から拝されようと願った者たちのいる)地獄を支配しているような狂想的な精神錯乱に陥らないためである。
世に生きていたとき、死後聖者にされて、祈り求められようと熱心に求めた者は、このように精神が錯乱する。

64.教皇派の国民の多くは、特に修道僧は、霊界に入ると聖者を求めるが、彼らを見出さないため、それを怪しむが、後で他者から以下のように教えられる。
聖者たちは、天界や地獄の者たちと入り交じって生活しているが、彼らは自分自身が拝され祈り求められていることは全く知らない。それを知って、祈り求められようと願った者は、かの狂想的な精神錯乱に陥いる地獄にいる。と
聖者礼拝は天界で、このように嫌忌されているので、天使たちは礼拝を聞く毎に戦慄する。なぜなら礼拝が人間(や天使)に捧げられるに従って、その者は主から遠ざけられるからである。
礼拝が行なわれると主のみが拝されなくなり、もし主のみが拝されないならば、差別待遇が為され、そのため交わりと、交わりから流れ出る生命の幸福とが破壊されるからである。

1.愛と信仰、人間の再生

2.善と真理:(天界)

3.悪と誤謬:(地獄)