天界の秘儀-3:悪と誤謬

スエデンボルグのArcana Coeletia(天界の秘儀:柳瀬芳意訳)を理解するために簡略に書き換えた抜粋No.3です。

*)「地の逃亡者、さすらい人」について

389.人間は自分自身から仁慈を剥ぎ取る時、自分自身を主(真の生命:主から発する愛の生命)から引き離すのである。それは人間を主に連結させるものはひとえに仁慈であり、すなわち、隣人に対する愛、慈悲であるからである。仁慈がない時、分離が起こり、分離が起こる時、人間は自分自身に委ねられ、かくて全てその考えることは誤りとなり、全てその意志する所は悪となる。
これが人間を殺し、または人間に生命を些かも残さなくなるものである。

390.悪と誤謬の中にいる者は、絶えず殺されはしないかと恐れている。彼らは彼らを守ってくれる者を誰一人持っていないため、全ての者を恐れている。悪と誤謬の中にいる者は、その隣人を憎悪し、全て互いに殺そうとしている。

391.他生にいる悪霊の状態は、悪と誤謬の中にいる者が全ての人を恐れていることを示している。
自分自身から仁慈をことごとく剥奪した者は、さまよって彼方此方へと逃げていく。全て彼らの行く所では、その社会の人々は彼らが近づいてくるのみで直ぐさまその性格を認め、彼らを放逐するのみでなく、実に彼らを殺しかねないような憎悪を以って激しく罰する。悪霊は互いに他を罰し、責めさいなむことに最大の喜びを感じている。
誰でも人が他の者にのぞむことは全てその人自身に帰ってくるため、悪と誤謬そのものが、恐怖の原因である。悪と誤謬はそれ自身の中に刑罰を持っており、従って、彼らは自分自身の中にこれらの刑罰の恐怖を持っているのである。

*)「地獄」について

693.主と隣人に対する愛はそこから生まれてくる歓びと幸福とともになって天界を構成しているように、主と隣人に対する憎悪はそこから必然的に発してくる刑罰と呵責(拷問)とともになって地獄を構成している。無数の種類の憎悪があり、地獄も丁度それと同じように無数である。

695.地獄の形と秩序とは凡ての者が欲念と幻想により縛り付けられているといったものであって、かれらの生命はその欲念と幻想から成っているが、此の生命は死の生命であるため、恐るべき、表現を絶した呵責(拷問)に変化している。なぜなら、彼らの生命の最大の歓喜はお互いに他を罰し、苦しめ、悩ますことにあって、多くの拷問とともに、恐るべき幻想を引き起こす方法を知っているのである。

700.地獄に関しては以下のものが説明されている。
一.憎悪、復讐、残酷の生活を送った者らの地獄
二.姦淫と好色に生活した者らの地獄、また欺く者と女魔術者(妖婦)の地獄
三.貪欲者の汚れた地獄、また単に快楽に生きた者の糞尿地獄
四.他の地獄(無垢な者を欺いて迫害した者、狡猾な振舞いで尊敬を得た者、他の者を自分自身に服従させようとした者、自分自身を聖人と考えた者、友情の仮面の下に他人の所有物を切望した者、支配と富のために宗教を利用した者など)

*)「剥奪」について

698.地獄の他にまた剥奪があり、それについては聖言に多くの事が記されている。何故なら人間は実際に犯した罪の結果、他生へ無数の悪と誤謬とをもって入り、これを自分自身に蓄積し、接合しているからである。正しい生活を送ったものでさえもそうである。これらの者が天界へ抱え上げられることができる前に、その者らの悪と誤謬は消散されなくてはならず、この消散が剥奪と呼ばれている。

1106.この世で生きている間に単純と無知から宗教上の誤謬を吸引したものの、他の者のように憎悪、復讐、姦淫に生きなかった多くの人物がいる。他生では、これらの人物は誤謬に留まっている限り、天界の社会へ入れられることはできない。なぜなら、その誤謬が天界に感染するからである。それで彼らはその誤った原理を除くために、しばらく低地にとどめ置かれる。
彼らが低地に留まる時間は、誤謬の性質と程度に応じ、長短さまざまである。そこに甚だしく苦しむ者があり、それほど苦しまない者もいる。
こうした苦しみは剥奪と呼ばれるものであり、剥奪の期間が過ぎると、彼らは天界に挙げられ、新しく来た者として信仰の諸真理を天使から教えられる。

1108.ある者は眠りと目覚めとの中間状態に置かれて、目覚めた状態を除いては、ほとんどものを考えはしない。そして、目覚めた状態では、身体の生命の中で考えたり行ったりした事項を思い出すが、ふたたび目覚めと眠りの中間状態に陥って行くのである。このように彼らは剥奪される。

1109.誤った原理を充分に確認した者は完全な無知に陥り、明確でない混乱した状態に置かれ、彼らは単に確認した事項を考えるのみで内的な苦痛を覚えるのである。しかし、しばらく後で、彼らはいわば新しく作られ、信仰の諸真理に浸透する。

1110.自分の善行による功績を主張し、救いの効力を自分に帰して、主の義に帰しはしないということを思考と生活の中で確認した者たちは、他生では、木を切る者となる。彼らがその仕事に携わっていて、疲れてはいないか?と訊ねられると、自分たちは天界に値することができるほどの仕事を未だ成し遂げていないと答える。しだいに彼らも良い社会に入れられることができるようなものとなるが、真理と誤謬の間に長く動揺している。
かれらは義務を重んじる生活を送っているため、主により非常な配慮が与えられており、時折、彼らのもとへ天使たちを送られている。

1111.善良で道徳的な生活を送ったものの、自分の業により天界に値すると考えた者は、他生では、草刈と呼ばれる。彼らは冷たい。そのため自分自身を草刈という労働で温めようと試みる。かれらは天界に挙げられることを常に望んでおり、時折どのようにして自分自身の力により天界に入れるであろうかと共に協議している。
これらの人物は良い業を行ったため、剥奪される者たちの間にいて、ある時間が経過した後で、良い社会に入れられて教えられるのである。

 

*)「自己愛」から発する悪と誤謬:(「天界と地獄」より抜粋)

555.最初私は、どうして自己への愛と世への愛とはかくも悪魔的なものになり、その愛にいる者らの姿はかくも怪物になるのかと怪しんだ。
なぜなら世では自己愛のことはほとんど考えられず、ただ心の得意のみが - その得意は誇りと呼ばれ、それのみが自己愛であると信じられているが − 考えられているからである。さらに自己愛は、世では生命の火であると考えられ、その火に人間は刺激されて職業を求め用を遂行しており、その中に名誉と栄光とを見ることができないかぎり、その心は麻痺してしまうのである。人々は言う、他の者の心の中にほめたたえられ喜ばれるためでなくて、価値のある有益なすぐれた行為を為した者が一人としてあるであろうか、と。そしてそれは栄光と名誉に対する、従って自己愛の火から発しないで、何処から発しようかと尋ねられている。
従って世では自己愛は、それ自身において観察されるならば、地獄を支配し、人間のもとに地獄を作っていることは知られていない。
実情はこうしたものであるため、私は先ず自己愛の何であるかを記し、後に悪と誤謬とは全てその愛を源泉として発してくることを記そう。

556.自己愛は自己にのみ良かれと欲し、自己のためでないなら、他の者の益を願わず、教会、国家、または人間社会の益さえも願わず、また自分自身の名声、名誉、栄光のためにのみ社会に益を与えることにある。なぜなら他の者に対して行なわれる用の中にそうしたものが認められないかぎり、その人間は心の中に、それは私に何の関係があるのか、なぜ私はそうしなくてはならぬのか、それは私に何の利益になるのか、と言って、それを何一つ為さないからである。このことから自己愛にいる者は教会を愛さないし、その国家も、社会も、またいかような用も愛さないで、ただ自分自身のみを愛することが明らかである。
自分自身を愛する者はまた自分に属する者、すなわち、個別的には自分の子供や孫を、全般的には自分と一つのものとなっていて彼が自分の者と呼んでいる者を愛している。これらの者を愛することは自分自身を愛することである。なぜなら彼は彼らを自分自身の中にいるものとして認め、また彼らの中に自分自身を認めているから。彼が自分のものと呼んでいる者の中にはまた彼を讃え、尊び、彼の愛を求める全ての者がいる。

557.自己愛は天界の愛に較べるならばその特質は明らかとなるであろう。天界の愛は用を用のために、または善を善のために愛することにあって、それを人間は教会、国家、人間社会、同胞のために遂行する。なぜなら用と善のすべては神から発しているため、それが神と隣人を愛することであるから。
しかし自分自身のためにそれらを愛する者は、それらを自分自身に仕えさせる為に、それらを自分に仕える付添いとしてしか愛していない。ここから、自己愛にいる者は、教会、国家、人間社会、同胞が自分に仕えることを願って、自分がそれらに仕えることを願わない。なぜなら彼は自分自身を彼らの上において、彼らを自分自身の下においているからである。
従って人間は自己愛にいるに応じて、天界の愛から自分自身を遠ざけている。

558.さらに誰でも、用と善とを愛し、教会、国家、人間社会、同胞のために用と善を遂行することに心の歓喜を覚えることから成る天界の愛を抱くに応じて、主から導かれる。なぜならその愛はその中に主がおられ、また主から発している愛であるから。
しかし誰でも自己愛にいるに応じて - その愛は自分自身のために用と善とを遂行することから成っているが − 自分自身から導かれ、そして誰でも自分自身から導かれるに応じて主からは導かれない。ここからまた、誰でも自分自身を愛するに応じて、自分自身を神的なものから遠ざけ、かくてまた天界から遠ざけている。
自分自身から導かれることは自分自身の性質から導かれることであって、自分自身の性質は悪以外のものではない。なぜならそれは彼の遺伝悪であって、その悪は神よりも自分自身を愛し、世を天界よりも愛することにあるから。
人間はその為す善の中に自分自身を顧みる度毎に、自分自身の性質の中に入れられ、かくてその遺伝悪の中へ入れられる。なぜなら彼は善から自分自身を仰いで、自分自身から善を仰がず、それで善の中に自分自身の映像を作り出して、神的なものの映像を全く作り出さないからである。
自己愛は天界の愛に反していることはその二つの愛の起源と本質から認めることができよう。
自己愛にいる者における隣人への愛は −自分自身が隣人であるため− その者を中心とし、その者と一つになっている全ての者に及んでいるが、その者との連結の度が減退するに応じて減退している。このサークル(仲間)の外にいる者は全く顧みられず、その仲間に対立している者たちは、その性格が、いかほど賢く、正直で、公正であっても、敵と見なされている。
しかし霊的な人間の隣人への愛は、主を中心として主から始まり、愛と信仰とにより主と連結している全ての者に及び、その者たちの愛と信仰との性質に応じて発出している。
以上より、人間から始まる隣人愛は、主から始まる隣人愛とは対立しており、前の愛は人間の固有性から発しているため悪から発しているのに反し、後の愛は善そのものであられる主から発しているため、善から発していることが明らかである。
約言すれば、自己愛はそれを宿している人間の頭となり、天界の愛はその者の足となっている。彼はその上に立って、もしそれが彼に仕えないなら、それを足の下に踏みにじってしまう。これが、地獄に投げ込まれる者らは、頭を下の地獄に向け、足を上の天界に向けて、地獄に投げ込まれる理由である。

560.こうした人物の社会を、すなわち、その全ての者は自分自身のみを愛して、他の者を、その者が自分自身と一つのものになっていないかぎり愛さないところの、そうした者の社会を自ら想像されよ、さすれば彼らの愛は強盗同士の愛のようなものにすぎないことを知るであろう。彼らは共に組んで仕事をしている限り、友と呼び合っているが、共に組まず、また統制の規定を斥けるときには、互いに他に向かって立ち上がり、殺し合うのである。もし彼らの内部または心が点検されるなら、それは互いに他に対する凄まじい憎悪に満ちており、心ではあらゆる公正と誠実とを嘲笑し、また神的なものも嘲笑し、これをとるに足らぬものと考えていることが明らかとなるであろう。

562.自己愛にいる者らに属している悪は、全般的には他の者に対する軽蔑であり、羨望であり、自分を支持しない者全てに対する憎悪とそこから発する敵意であり、色々な種類の憎悪、復讐、狡猾、詐欺、無慈悲、残酷であり、宗教的な事項については、神と、教会の真理と善である神的な物とを軽蔑するのみではなく、それに向かって怒ることである。この怒りはその人間が霊になると憎悪に変り、その時は彼は今記した事項を聞くに堪えないのみでなく、神を承認し礼拝する者全てに対し憎悪に燃え上がりさえする。

564.支配(主権)には2種類のものがあり、一つは隣人愛の支配であり、他は自己愛の支配である。
隣人愛から支配するものは全ての者の善を欲し、用を、かくて他に仕えることを何物にもまさって愛し −それは他の者に、それが教会であれ、国家であれ、社会であれ、同胞であれ、善を願って、用を遂行することであるが− それがその者の愛であり、またその心の歓喜である。
しかし自己愛から支配する者は自分自身にのみ善を願って、他の何人にもそれを願っておらず、その遂行する用は自分自身の名誉と栄光のためであって、その名誉と栄光が彼の唯一の用である。彼が高位を求めるのは、その国家と教会とに行なわれる善い務めのためではなくて、自分が名誉と栄光を受け、かくして心の歓喜を味わうためである。
隣人愛から支配した者は再び諸天界で権威を与えられるが、しかし支配するものは彼らではなくて、彼らの愛する用であり、用が支配するとき、主が支配されるのである。しかし世で自己愛から支配した者たちは、世の生命の後では地獄におり、そこで卑しい奴隷となる。

*)「世への愛」から発する悪と誤謬について:(「天界と地獄」より抜粋)

565.世への愛については、自己愛ほど天界の愛に対立してはいない。なぜならそれはその中にそれほど大きな悪を秘めてはいないからである。
世への愛は人間が他の者の富をあらゆる種類の術策によって一人占めにしようと欲し、心を世の富に置き、自分を隣人に対する愛である霊的愛から遠ざけ引き出し、引いては天界から、神から、遠ざけ引き出すのを許すことから成っている。
しかしこの愛には色々なものがある。名誉のみを愛し、名誉を与えられようとの目的から富を求める愛があり、富を蓄積しようとの目的から名誉と高位とを求める愛があり、世で歓喜を与える色々な用のために富を求める愛があり、守銭奴のように、ただ富のために富を求める愛といったものがある。
富を求める目的となっているものはその富の用と呼ばれ、その目的または用から愛はその性質を得ている。なぜなら愛は目指す目的と同じ性質を持ち、他の全ての物はただその手段としてのみ役立つにすぎないからである。

*)「地獄の政治」について:(「天界と地獄」より抜粋)

220.地獄にも政治がある。なぜなら政治がなければ彼らは閉じ込めておかれないからであるが、そこの政治は自己愛の政治であって天界の政治に対立している。
各々の者は他の者を支配し、他より傑出しようと願っている。彼らは彼らに与しない者を憎み、これを復讐と憤怒の対象としている。それが自己愛の性質であり、そのため、他よりも邪悪な者が統治者として彼らの上におかれ、これに彼らは恐怖から服従している。

*)「奈落の火」について:(「天界と地獄」より抜粋)

573.奈落の火により、自己愛から流れ出る、悪を為そうとする欲念が意味されており、また、同じ火により地獄に存在する拷問が意味されている。
その欲念は自分を尊敬せず、認めず、礼拝しない他の者を害そうとする欲念であり、そこから生まれる怒りと憎悪と復讐とに応じて、彼らに対する残虐な欲念も強烈になっている。
こうした欲念が社会の法律を恐れ、名声、名誉、利得、生命を失うことを恐れるという外なる束縛により抑制されなくなると、各自の悪の衝動にかられて他の者につかみかかり、可能な限り、他の者を征服し、己が支配下におき、服従しない者を残酷に扱うことを楽しむのである。
危害を加える享楽は支配する享楽と結合しており、敵意、羨望、憎悪、復讐という自己愛から流れ出ている悪のなかに宿っている。
地獄は全て、そうした社会であり、その残酷と拷問もまた奈落の火により意味されている。

*)「歯がみ」について:(「天界と地獄」より抜粋)

575.歯がみは、誤謬にいる者ら相互の絶え間のない論争と闘争であって、それには他の者に対する軽蔑、敵意、愚弄、冒涜が結びつき、そうした悪も色々な種類の口論となって爆発している。
なぜなら、各々は自分自身の誤謬のために戦って、それを真理と呼んでいるからである。
こうした論争と闘争は地獄の外では、歯がみのように聞こえ、また、天界から真理が彼らの間へ流れいるときも同じく、歯がみに変化する。
そうした地獄には、自然を承認して神を否認した全ての者がおり、これらの者は、天界からの光を全く受けることができず自分の内部に何も認めることができないため、大半の者は、形態的な感覚的な、目で見、手で触れるものを除いては何一つ信じていない。
そのため、感覚の迷妄が彼らの真理の全てであり、そこから彼らは論じている。

*)「酔いどれ」について

1072.自分が把握する事項を除いては何事も信じないで、それらから信仰の神秘な事項を探求する者は「酔いどれ」と呼ばれている。
そしてこのことは、その人間の常として、記憶か、哲学か、その何れかの感覚的な事項により行われるため過誤に陥らないわけにはいかないのである。なぜなら人間の思考は地的な、形体的な、物質的なものから発していて、そうしたものが絶えずその思考にまつわりつき基礎付けられ終結しているため、それは単に地的な、形体的な、物質的なものであるにすぎないからである。それゆえ、こうしたものから神的な事項について考え論じることは自己を過誤と歪曲とに陥れることであり、このようにして信仰を得ることは、らくだが針の穴を通ることが不可能であるように不可能である。
仁慈の信仰の中にいる者は、自分達が把握できるものは極めて僅かしかない、そのため何かを把握できないからといって真理ではないと考えることは狂気のさたであると言うのである。
しかし、その反対に、仁慈の信仰の中にいない者は、単に何かの事項がそうであるかないかと論じ、それがいかようになっているかを知らない限り、それが真実であることを信じることはできないと言うのである。
禍いなるかな自分自身の目から見て賢く、自分自身の顔の前では理知のある者よ、禍いなるかなぶどう酒を飲むに英雄である者よ、強い酒を混ぜ合わすのに力ある者よ(イザヤ書5.21、22)

*)「豚」について

1742.かの魔鬼は、主が彼らを狂人から追い出されたとき、自分らが豚の中へつかわされるように求めた。(マルコ5.7-13)
これらの魔鬼は身体の生命にいた頃は汚れた貪欲に溺れた者であった。こうした者は他生では豚の間に時を過ごしているように自分自身には思われている。豚の生活は貪欲に相応しており、それが彼らには快いものとなっている。
彼らの愛している生命は、他生では悪臭を発する排泄物のような生命に変化するのであって、しかも驚嘆すべきことには、彼らはその悪臭を極めて楽しいものとして認めているのである。

*)「支配することを求める愛」:(スエデンボルグ「最後の審判-遺稿-」より抜粋)

237.世にいて、この文章を読まれる方々は、用(役立ち)のためではなく自己のために支配することを求める愛は悪魔の愛であって、その中には全ての悪が存在していることを知られたい。このことを知って警戒されるように。
私(スウェーデンボルグ)は以下のことを示す例を(死後の世界で)おびただしく見ているのである。

241.色々な国民の貴族に属している人間が見られた。かれらが天使たちから調べられると、彼らは絶えず自分自身に意識を向け、彼ら自身の卓越した高位と優越とについて考え、全ての人間が彼らにその目を向けるようにと欲していることが認められた。
死後の世界で、彼らに官職が与えられたが、彼らが共通の福祉に関わる主題について結論を下している時、彼らはその共同体に対しても、また用(公益)に対しても何らの情愛も持っていないことが認められた。かくて彼らは善と悪とを識別できず、ただ記憶から大袈裟に話すことができるにすぎなかった。かれらはそうした性格のものであったため、その官職から放逐され、方々歩き回って自ら勤めを得たが、何処へ彼らは行っても、そこに居る霊たちから「あなたは只あなた自身のことのみ考えていて、私達のことを考えてはいない」と話され何処でも受け入れられなかった。後で私は彼らの中の幾人かの者が行き詰まってしまって、施しを乞うているのを見た。
このように支配の愛は低くされてしまうのである。

245.命令することの歓喜、すなわち、その中にある甘美なものは表現を絶しているのである。この甘美なものから、人間は、それが地獄であるのに天界であり、天界の楽しさであると信じる。悪を為す愛、憎悪と復讐の愛、窃盗の愛、また姦淫の愛、それらのものの歓喜においても同じである。
人間は、主により改良され、これらの愛が後退すると、その時はじめて天界の歓喜が入ってくることを知らないが、その歓喜は前の歓喜を遥かに凌駕しているのである。また、かの悪の歓喜は、その時、不快な悪臭を発するものになることも、人間は知らない。

246.軍務に服していた者や文官の任務についていた多くの者を見た。その全ての者は、幸運の快い影響の下に、あらゆる物を治める主権を渇望するといった支配の歓喜を身につけてしまったのである。さらに彼らは他の者にまさって社会的な事項については才能と自然的な光(知性?)とを賦与されていた。死後、彼らは最初は神について話してはいたが、しばらくすると神を否定するのみではなく自然を承認し、ついには暗い陰の中に座って愚物のような者となり、悲惨な生活を送った。
その理由は、支配の愛は天界の愛に対立しているためである。

248.或る一人の霊がいた。彼は少年の頃から敬虔の念をつちかっていて、そこから、その生涯の終わりまで絶えず神を承認したのである。それでも彼は幸福の快い影響の下に、支配を求める愛の中に入ってきて、そこからあらゆる種類の悪へ入った。彼は実際それらを行いはしなかったが、それらを容認し合法的なものと考えた。
他世においても彼は父なる神に熱烈に祈った。なぜなら彼はそうすることで全ての事項が彼に赦されると信じたからである。
しかし彼は主を否定するほどにも主に対し憎悪を抱きはじめ、後には主を崇める者たちを迫害した。ついには彼は神をも否定して愚物になり、生命をほとんど持たない者たちの間へ追いやられてしまった。

249.支配する愛の歓喜に居る者は霊的なものになることはできない。彼らは情愛の全てを、引いては思考の全てを彼らの固有性(自己愛、自我)に浸してしまうという理由から形体的(自然的)なものとなり、その固有性から引き出されることはできない。
心で神を承認し、その固有性から引き上げられる者は、誰でも、天界を通して主から理知(霊的な光)が流れ入ってくる。しかし、その固有性(自己愛)のために神を見上げることができない者は天界を閉じられてしまい、天界が閉じられると彼らは愚物になり、馬鹿者のようになるのである。

神の摂理:

6480.主は人間の意志と思考の中へ流れ入られるのみではなく、同時にその人間に起こる多くのものにも流れ入られている。
これは主が天界を通して間接的に流入され、また御自身から直接的に流入されることであって、これは摂理と呼ばれるのが適切であるため、以下の記事では、それを「神の摂理」と呼ぶことにしよう。

6481.他世に入ってくる霊たちは、「神の摂理」は全般的なものではあるが、個々のものの中には働いていないという意見を抱いてくる。この意見の原因は、悪い者が名誉を与えられ、金持ちになり、成功の栄冠をつけるのを彼らが見て、それらの成功を悪い者らの賢明さに帰しているためであり、以下のことを知らなかったためである。
神の摂理は人間の永遠の救いをその目的としており、この世での人間の幸運、すなわち、人間の豊かさと卓越とを目的としてはいない。
大半の人物は幸福を豊かさと卓越とにおいているが、事実はそうしたものではない。なぜなら普通、卓越は自己愛を生み、豊かさは世を愛する愛を生み、かくて神に対する愛と隣人に対する愛とに反したものを生むからであり、それでこうした物は悪い者に与えられる。(また善い者にも、それが不適当なものではなく、彼らを天界から引き出さないなら与えられるのである。)
さらに主は善い者を通してのみでなく、悪い者を通しても、その御目的に備えられている。主は悪い者をその者の愛を通して動かし、隣人に、国に、教会に良いことを為させられる。悪い者は卓越することを求め、自分自身の利益を求め、他から正しい熱意ある者であると見られようと願い、これらから恰も火でたきつけられるように、気質の善良な者よりもさらに強く動かされて、そうしたことを行うからである。
また悪い者には、全ての物は彼ら自身の利口さから生まれ、神の摂理などない、あってもただ全般的なものしかないと信じることも許されているのである。彼らはそれ以外のことは認めようとしないため、また、彼らが公共の善に資する事項を遂行するようにと、成功も彼らの企画に応じて彼らに与えられているが、その成功は、彼らがそれを彼ら自身に帰しているという事実から、彼らをさらに刺激するのである。

聖言の誤謬化::(スエデンボルグ「聖書」より抜粋)

1 第五の御使が、ラッパを吹き鳴らした。するとわたしは、一つの星が天から地に落ちて来るのを見た。この星に、底知れぬ所の穴を開くかぎが与えられた。 2 そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。 3 その煙の中から、いなごが地上に出てきたが、地のさそりが持っているような力が、彼らに与えられた。 7 これらのいなごは、出陣の用意のととのえられた馬によく似ており、その頭には金の冠のようなものをつけ、その顔は人間の顔のようであり、 8 また、そのかみの毛は女のかみのようであり、その歯はししの歯のようであった。 9 また、鉄の胸当のような胸当をつけており、その羽の音は、馬に引かれて戦場に急ぐ多くの戦車の響きのようであった。 10 その上、さそりのような尾と針とを持っている。その尾には、五か月のあいだ人間をそこなう力がある。 11 彼らは、底知れぬ所の使を王にいただいており、その名をヘブル語でアバドンと言い、ギリシヤ語ではアポルオンと言う。(黙9.1-3,7-11)

13.ここに取り扱われている主題は、聖言から発している真理に関する知識が、感覚的な人間により破壊され、誤謬が真理であると自分自身に説きつけている教会の状態である。
「天から落ちた星」は破壊された真理の知識を意味し、「太陽も空気も暗くなった」は暗闇となった真理の光を意味し、「穴の煙の中から出てきたいなご」は、感覚的な者が全ての物を妄想から認め判断するような、最も外なる物における誤謬を意味し、「さそり」は、その説得性を意味している。そのいなごが「出陣の用意のととのえられた馬」のように現れたことは、彼らの理論が恰も真理の理解から発していたかのように見えたことを意味し、「その頭には金の冠のようなものをつけ、その顔は人間の顔のよう」であるのは、彼らが彼ら自身には勝利者として、賢い者として見えたことを意味し、彼らが「そのかみの毛は女のかみのよう」なのは、彼らが彼ら自身には真理に対する情愛を抱いているかのように見えたことを意味し、彼らが「その歯はししの歯のよう」なのは、自然的な人の最も外なる物である感覚的なものが、全ての物を支配する力をもったものとして彼らには見えたことを意味している。
彼らが「鉄の胸当のような胸当をつけ」ているのは、彼らが戦って勝つ手段となる妄想から発した論争を意味し、「その羽の音は、馬に引かれて戦場に急ぐ多くの戦車の響きのようであった」のは、恰も聖言から発した教義の真理から発し、その真理のために戦わなければならなかったかのような理論を意味しており、彼らが「さそりのような尾と針とを持っている」ことは、それによって欺くその狡猾な技巧を意味し、彼らが「五か月のあいだ人間をそこなう力がある」ことは、彼らが真理を理解し善を認識している者たちに一種の混迷状態を生じさせることを意味し、「彼らは、底知れぬ所の使を王にいただいており、その名をヘブル語でアバドンと言い、ギリシヤ語ではアポルオンと言う」ことは、彼らの誤謬は地獄から発していて、そこには単に自然的なものであって、自己の理知にいる者らが住んでいることを意味している。

1.愛と信仰、人間の再生とは?

2善と真理:(天界)とは?

4.教会:(真の信仰)とは?