霊たちの世界(人間の死後の状態)

スエデンボルグのHeaven and Hell(天界と地獄柳瀬芳意訳)とArcana Coeletia(天界の秘儀)の抜粋、抄録です。

死から蘇り、永遠の生命へ入っていくこと:

H445.身体の死は肺臓の呼吸と心臓の鼓動が止むとき起こりはするが、その人間は死ぬのでなく、単に彼が世で用いるために持っていた身体の部分と離れるのみであって、その人間自身は生きているのである。
人間自身は生きているというのは、人間は身体から人間ではなく、霊から人間であるからである。なぜなら霊が人間の中で考え、その思考が情愛と共になって人間を作っているからである。
このことから人間は死ぬと、単に一つの世界から他の世界へ移っていくにすぎないことが明らかである。

H447.主による復活とは、人間の霊を身体から引き出して、それを霊界に入れることが意味されており、そのことは普通、甦りと言われている。

H448.人間がいかように復活するかを私(スウェーデンボルグ)は実際の体験などにより示された。

H449.天的王国から来た天使が、死にかかっている者の頭の近くに座り、周りに居た霊たちは退いた。
なぜなら、天的な天使が居合わせると、死体から発散するものは芳香として匂い、霊たちはこれを嗅ぐと近づくことができないからである。このようにして悪霊は、人間がはじめて永遠の生命の中へ入れられるとき、その人間の霊から遠ざけられている。
頭の近くにいた天使は沈黙して、顔を覗き込むことにより、その思考を伝え、死者の思いを知る。

A180.天的王国から来た天使は、(死者の思考にある)全ての迷妄(妄想)と誤謬を軽視し、それを侮蔑に価した事項とは考えないで、何ら意に介していないかのように微笑している。

A182.天的な天使達は甦った人とともにいる時は、彼を愛しているため、その許を去らない。しかし、その霊が天的な天使達と交わることができないような性格のものである場合は、その者は彼らから切に離れようとする。こうしたことが起こると、霊的な天使達が到着し、彼に光を用いさせる。

A450.天使達は、目が開かれて、見ることができるように、左の目の膜を鼻梁の方向へ巻いて取るように見えた。その膜が巻かれて取り去られると、光が多少見えるが、それは人間が目を覚まし、まぶた越しに光を見るときのように、かすんで見えるのである。このかすんだ光は私には空の色のように見えた。
霊的な天使たちは、光が用いられてからは、その新しい霊が望むことの出来る一切の務めを彼のために行ってやり、他世の事柄について彼に教えるが、しかし彼が把握できることしか教えない。
もし、新しい霊が進んで教えを受けようとしないなら、彼は霊的な天使たちの交わりから離れようとする。そのようにして新しい霊が、天使達から自分自身を引き離すと、彼は善良な霊たちに迎えられ、その交りに加わると、あらゆる親切な務めが彼のために為される。
しかし、もし世に居た時の彼の生活が善良な者と交わることができないようなものであったならば、彼は彼らからも離れようと願い、こうしたことが、世にいたときの彼の生命に全く一致している者と交わるようになるまでもつづき、その一致した者と共になると彼は自分自身の生命を見出すのであり、そのとき、驚くべきことであるが、世で送った生活に似た生活を送るのである。

A453.人間の霊の形は人間の形である。
人間の身体の形は霊の形に従って霊に付加されたものであって、その反対ではない。

人間は死後も、世で持っていた知覚、記憶、思考、情愛の一切を持っていること:

H461.人間は自然界から霊界へ移るとき、その地的な身体をのぞいては、その人間に属している一切の物を携えて行く。

H462.天界にいる者たちは、世にいた時よりも精妙な感覚により認識し、さらに賢く考えるのである。
天界の光は、天使たちの視覚に極めて微細なものさえも認めさせ、また区別させる。彼らの視覚は理解に相応し、両者は一つのものとして働いている。
彼らの聴覚は、理解と意志から発している彼らの認識に相応しており、かくて何かを話している者の音声と言葉との中に、その者の情愛と思考との最も微細なものをさえ認めている。
しかし天使たちの他の感覚は視覚と聴覚ほど精妙ではない。なぜなら視覚と聴覚とは彼らの理知と知恵とに役立っているが、他の感覚はそれに役立たないからである。このことは世の人間にも見られ、味覚におぼれ、触覚の誘いに応じるにしたがって霊的な真理に対しては粗雑で愚鈍になっている。

死後 の人間の最初の状態:

H491.人間は、天国か地獄か、その何れかに入る前に死後通過する3つの状態があり、最初の状態は外部の状態であり、第2は内部の状態であり、第3は準備の状態である。
普通の人間は、霊たちの世界では、これらの状態を通るが、これらの状態を通らないで、死後すぐに天界に挙げられるか、または地獄に投げ込まれるかする者もいる。
すぐ天界に挙げられる者は世で再生し、従って天界に入る準備をしていた者たちである。再生し準備していて、ただ身体にある自然的な不潔なものを斥けさえすればよい者たちは天使により直ぐ天界へ連れて行かれる。
しかし外面では善良に見えるが内心は邪悪で、その邪悪な升を奸計で満たし、善良を詐欺の手段として用いた者らは直ぐに地獄に投げ込まれる。最も狡猾な者は、頭を下に足を上にして、真っ逆さまに投げ込まれる。また死後直ぐに洞穴に投げ込まれて、霊たちの世界にいる者から分離され、そこから引き出されたり、入れられたりして、それを繰り返す者もいる。
しかし、これらの者は、霊たちの世界に留め置かれて、そこで神の秩序に応じて、天界か地獄かの何れかに準備をする者たちに比べるならば僅かしかいない。

H492.人間は、死後直ぐに外部の状態に入る。
各人は、その霊の方面では、外部と内部を持っている。人間は子供の頃から、友情、慈善、誠実をうわべで示して、自分自身の本来の意志を隠すことに慣れ、内心はいかようなものであっても、外面的には道徳的な社会的な生活を送っており、その習慣の結果、人間はほとんど自分の内部を知らず、またそれに注意もしていない。

H493.死後の人間の最初の状態は世に居たときの状態に似ている。

H498.この死後の人間の最初の状態は、人により数日〜数ヶ月続くが、誰のもとでも1年を超えることはない。

死後 の人間の第二の状態:

H499.死後の人間の第二の状態は、内部の状態と呼ばれる。彼はその時、意志と思考に属する内部へ入れられて、最初の状態で入れられていた外部は眠りにつく。
誰でも、人間の生命と言葉と活動とに注意する者は、人各々には外部と内部のあることを、または外的な、内的な思考と意図のあることを知ることができよう。そのことは我々は考えていること、願っていることとは全く異なったことを話したり、行ったりするペテン師やおべっか使いから、また偽善者から非常によく知っている。

H505.霊が内部の状態にいる時、その人間が、世で、その者自身の中では、いかような性質をもっていたかが明らかに示される。
世では内的に善にいた者は、その時、合理的に、また賢明に、実に世に居たときよりも賢明に行動する。しかし、世で悪にいた者は、そのとき、愚劣な、狂った、実に世に居たときよりも狂った振舞いをする。

H506.世では善に生きて、良心から行動し、神を認めて真理を愛し、とくに神の真理を生活に応用した者たちは全て、その内部の状態に入れられると、眠りから覚めたように、また日陰から光の中へ入った者のように自分自身には思われる。
しかし世では悪に生き、何ら良心を持たず、従って神的なものを否定した者たちの状態は全く反している。
悪に生きるものは全て、自分は神を否定はしないと外なる思考で考えようとも、その内部では神を否定している。なぜなら、神を承認することと邪悪なことを行うことは相反したことであるためである。
こうした人物は他世では、内部の状態に入って、その言葉を聴かれ、その行為を見られると、逆上しているように見える。彼らは、その悪念から、あらゆる憎むべき業(他に対する軽蔑、冷笑、冒涜、憎悪、復讐)を爆発させるからである。

H507.霊たちは第二の状態に入ると、世にいたとき秘かに行ったり話したりしたことが明らかにされる。なぜなら、そのときは彼らは外面のことを考えて抑制されないため、以前は秘かに言ったり行ったりしたことを今は公然と言い行いもしようと努め、世にいたときのように自分の世評を恐れもしない。

H511.悪い霊は善い霊から、この第二の状態の中で分離する。

死後 の人間の第三の状態:

H512.死後の人間の第三の状態は教えを受ける状態である。
この状態は天界に入って天使となる者たちのためにあるが、地獄に入る者らのためにはない。なぜなら、地獄に入る者らは教えられることができず、彼らは自分自身の愛に向き、従って最終的に、類似した愛にいる奈落の社会に向かうからである。

H513.教えを与えられる場所は様々なものがあり、それは全ての者が一人一人その気質と受ける能力とに従って、そこで教えを受けるためである。そこで彼らは世の名誉や富から身に付けたところの、その粗雑な物を除かれ、かくして清められるのである。
ある者は先ず、その誤謬を剥奪されるが、それは低地と呼ばれ足のうらにある(地獄にとりまかれた)場所で行われ、そこで彼は非常な苦しみをなめる。これらの者は誤謬を確認はしたものの、善い生活を送った者たちである。なぜなら確認された誤謬は非常な力を持って密着しており、それが消散しない中は、真理は認められず、引いては(天界へ)受け入れられることはできないからである。

天界に入る生活を送ることは困難なことではない:

H528.霊的な生活と呼ばれているところの天界に入る生活を送ることは困難であると信じている者たちがいる。
なぜなら彼らは、「人間は世を捨て、肉欲を自分から絶って、霊的にいきなくてはならない」、と告げられているからである。彼らは、富と名誉から成った世の物を斥けなくてはならない、神、救い、永遠の生命について、絶えず敬虔に瞑想しつつ歩かなければならない、祈りの中に、また敬虔な書物を読んで生涯を送らなければならないと考えている。
しかし、私(スウェーデンボルグ)は多くの経験より、それは全くそうしたものでなくて、このように世を捨て、霊に生きる者は、もの悲しい生命を身に付けて、天界の喜びを受け入れないことを知ったのである。
人間は天界の生命を受けるためには、ぜひ世に住んで業務と職業に従事し、社会的で道徳的な生活によって、霊的生活を受けなければならず、それ以外の方法では、人間、又その霊は天界に入る準備をすることもできない。
なぜなら、内なる生活を送るが、外なる生活を送らないことは、土台のない家に住むようなものであって、そうした家は次第に沈下し、最後には倒れてしまうからである。

H533.天界の生活を送ることは信じられているほどに困難でないことは、以下のことより明白である。
自分はそれが不誠実なことであり、不正なことであることは知っているが、自分の心がそこに傾いている何か悪いことが自分の前に現れてきたとき、それは神の教えに反しているため、行ってはならないと考えることだけが人間に必要なのである。
人間がそのように考えることに慣れ、そうした習慣を身に付けるなら、その時は徐々に天界に連結するのであり、天界に連結すると心の高い領域は開かれ、それが開かれるに応じて、不誠実で不正なものを認め、そうした悪を認めるに応じて、それを払い落とすことができるのである。悪は、それが認められないうちは払い落とすことはできない。
これは人間が自由意志から入ることのできる状態である。
このように人間がきっかけを作ると、その時、主は、その者の中の善い凡ゆるものを活気づけられ、彼に悪を悪として認めさせられるのみでなく、それを欲しないようにされ、ついにはそれを嫌忌するようにされる。
これが
「わたしのくびきはやすく、わたしの荷はかるい」(マタイ11.30)という主の御言葉の意味である。
しかし、そのように考える困難、悪に抵抗する困難は、人間が意志からその悪を犯すに応じて増大することを知らなくてはならない。なぜなら彼は、その悪に自分自身を慣れさせるに応じて、それを認めなくなり、後にはそれを愛し、愛する楽しさから悪を弁護し、凡ゆる種類の誤謬によってそれを確認し、それは許されることであり、善い事であるとさえ言うのである。これは初期の青年時代から凡ゆる悪へ向き奔放に突入すると同時に、心から神的な物を斥ける者たちの実情である。

1.愛と信仰、人間の再生

2.善と真理:(天界)

3.悪と誤謬:(地獄)